氷河の推察に、その少女は気付いたらしい。
「それは、そんなんじゃないわよ!」
彼女は慌てて、そのノートの本籍地がラブホテルであることを否定した。
聞けば(氷河がわざわざ尋ねたわけではない)、そのノートは彼女が友人から譲り受けたものらしい。
『このノートに名前を書かれた人間は恋に落ちる』
と書かれたノートの1ページに、無作法な少女の友人は、それまで彼女が一顧だにされずに歯がゆい思いをしていた片思いの相手の名を、半信半疑で綴ったのだそうだった。
『高橋高志は佐藤聡子を永遠に好きになる』
――と。
その文章には大いに文法的論理的な問題があると、正直氷河は思った。

その文法的論理的に問題のある文章を、しかし、問題のラブノートは現実のものにしたらしい。
彼女がノートにその文章を綴った翌日から、それまで彼女に対して全く無関心でいた男が豹変し、まるでストーカーのように彼女につきまとい始めた――のだそうだった。
彼女に永遠の愛を誓うメールや電話が日に4、50通、返信する時間もないほどの勢いで届くようになり、あげくには自宅に押しかけられ、家の前で意味不明のことをわめきだす始末。

そうなって初めて彼女は、自分を振り向いてくれなかったからこそ、その男には価値があると思い込んでいた自分自身に気付いたらしい。
すべては後の祭りだったのだが、彼女はともかく即行で元凶であるノートを処分したのである。
――友人に押しつけることで。

「あの子はもう うんざりって言って、私にそのノートをくれたのよ。ものは試しで、私もそのノートに好きな人の名前を書いてみたんだけど、タケルくんは私に振り向いてもくれなかったの。ほんと役立たずなノート!」
そんな怪しいものの力を僅かでも信じる者の気が知れないと呆れつつ、氷河は問題のノートのページを繰ってみたのである。

そのいかがわしいノートの力を、冗談半分にでも信じた者は多くいたらしい。
ノートの各ページには、様々な筆跡で、様々な名前が記されていた。
そして、記入済みの最後のページに、癇癪持ちの少女が書いたとおぼしき一文――『タケル君は私を好きになる』があった。

ノートは名を書けと指示しているのに、『私』と書いたのでは、ノートも『私』が誰なのかわからなかったのではないかと、氷河は思ったのである。
つまりこの癇癪持ちの少女は、取扱い説明書も読まずに、電源コードを本体につなげないまま、このパソコンは起動しないと騒いでいる機械音痴の親父と大差ないのだ。

「ああ、でも、あんな男はもうどうでもいいわ。あなた、カッコいい」
タケルくんに振り向いてもらうべく画策中だったはずの少女が、突然その瞳を不気味なほど明るく輝かせて、氷河に擦り寄ってくる。
氷河は、あからさまに不快の表情を作った。
「俺は、目の前にあるクズカゴの使用方法も知らずに、辺り構わずゴミを投げ捨てて回るような育ちの悪い女と付き合う気はない」
しかも頭も悪そうだし――と、これは氷河も言葉にはしなかった。
遠慮したからではない。
躾のなっていない見ず知らずの他人に、そんな立ち入ったことまで指摘してやるような親切心を、彼は持ち合わせていなかったのだ。

氷河の不親切に気付いた様子はなかったが、氷河のその言葉だけで、彼女は十二分に憤ることができたようだった。
クズカゴやノートの取扱い説明書を読み理解する能力はなくても、自分自身への侮辱には敏感な人間というものが、この世には存在する。
どうやら彼女はそういう種類の人間であるようだった。

のみならず――彼女は、自らの怒りに任せて公衆の面前でドアにものを投げつけることのできる少女でもある。
彼女がその場でヒステリーの一つも起こさずに無言で店を出ていったのは、ひとえに彼女を侮辱した男がカタギの人間に見えなかったからだったろう。
それでなくても滅多にその瞳に温かい色を帯びることのない男に、侮蔑の色一色の視線を向けられてしまったら、善良な(?)市民が怯えることになっても、それは致し方のないことである。

ともあれ、彼女はそれ以上の騒ぎを起こすことなく、連れの友人を急きたてて店を出ていったのだった。
怪しさを極めたラブノートなる代物を、氷河の手に残したままで。

無作法な少女とその連れが視界から消え去ると、事の成り行きを見守っていた他の客たちの好奇の目を完全完璧に無視し、氷河は、瞬の気に入りの席に着いた。
そこで改めて問題のノートのページをぺらぺらとめくってみる。
ノートの中には、明らかに同じ筆跡の記述が幾つかあった。
してみると、このノートは同じ人間が何度でも使うことができるものらしい――。

氷河がそこまで確かめたところで、買い物を済ませた瞬が店のドアを開け店内に入ってきた。
氷河の姿をすぐに見付け、彼の向かい側の席に滑り込んでくる。
「ごめんね。時間とっちゃって」
「いや。いいものは見付かったのか」
「うん。氷河には雪の結晶でできたツリーの絵のカード。すごく綺麗なんだ。クリスマスを楽しみにしてて」
「ああ」

不愉快な女の退場と瞬の登場が、氷河の気持ちをやわらげ、その瞳に温かい色を帯びさせた。
氷河は手にしていたノートをジャケットの内ポケットに押し込むと、瞬のためにテーブルの中央にデザートメニューを広げてやったのである。






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