あまりに意外な一文を読まされる羽目になった瞬の仲間たちは、全員がぽかんと呆けることになってしまったのである。 氷河もまた瞳を見開いて、その願いを記した人物を見詰めていた。 何が意外といって、瞬がそのノートを――瞬がいつ そのノートを手にしたのかは定かではないが――他人のためでなく、全人類のためにでもなく、自分のために使ったということが、瞬の仲間たちには意外だったのである。 彼等の知っている瞬は、そんなことをしそうにない人間だったから。 自分に向けられる仲間たちの眼差しの意味するところが、瞬には痛みを覚えるほどに はっきりと感じとれたらしい。 瞬は、泣きそうな目をして、その身体を縮こまらせた。 これはいったいどういうことなのかと瞬に問い質せる者は、その場には ただの1人もいなかった。 誰にも問われなかったからこそ――瞬は、自分が問題のノートに その一文を書くことになった経緯を、自ら告げざるを得なくなってしまったのである。 「……僕が初めてこのノートを見た時、これは駅前の文房具屋さんの筆記具コーナーにあったんだ。最初は試し書き用のノートかと思った……」 小さな声で、瞬は仲間たちに語り始めた。 瞬の仲間たちが、未だ意外の感を完全には拭い去れないまま、話の先を促すように軽く顎を引く。 「最初のページに、『このノートに名前を書かれた人間は恋に落ちる』って書いてあって、でも僕は面白いなあって思っただけで、そのままお店を出たの」 「なら、なんで」 それが事実なら、なぜこのノートのページに瞬の手による文章が記されているのか。 星矢に問われて、瞬は――瞬自身も不可解そうな顔になった。 「そのノート、もともとお店のものじゃなかったらしいんだ。それを僕の忘れ物だと思ったお店の人が、僕を追いかけてきて――」 わざわざ売り場を離れることまでしてくれた店の従業員の親切を、瞬はむげにできなかったのだろう。 あるいは、咄嗟にそれは自分のものではないと告げることができなかったのかもしれない。 いずれにしても、結局 瞬はその怪しいノートを城戸邸に持ち帰ることになった。 「もちろん僕は、このノートにほんとにそんな力があるなんて思ってなかった。でも、いろんな人が自分の好きな人に自分を振り向いてほしいって願いを書いてるのを見てるうちに、ノートが本物のはずないんだから、僕にも書くだけなら許されるだろうっていう気持ちになって――。それで、ついふらふらと書いちゃったの。でも、書いてすぐに、こんなこと書いちゃいけないって思った。このノートが本物でも、ただのノートにすぎなくても、本気で氷河に自分の気持ちに気付いてほしいって思ってるのなら、自分が勇気をもって伝えるべきだって思ったんだ。だから僕は、僕の書いたものを消そうとした。なのに、消せなくて――修正液でも駄目で、塗りつぶしてしまおうとしても駄目で、僕、なんだかすごく恐くなって、次の日に、元のお店にこれは僕のじゃないって返しにいったんだ。それきり、そのノートは見ていなかった」 「……」 要するに、瞬は、そのノートの力を信じて――というより、そのノートに記されている他の恋する者たちの念に誘われて、その一文を書いてしまった――らしい。 己れの手を離れたはずのノートが、巡り巡って再び自分の目前に現われた時、瞬はさぞかし驚いたに違いなかった。 しかも、もともと信じていなかったノートの力が、次々に目の前で実証されていったのである。 瞬の不安と狼狽は大きくなる一方だったのだろう。 それにしても、瞬の綴った文が『氷河が瞬を好きになる』ではないところが瞬らしい――と、瞬の仲間たちは思ったのである。 少なくとも瞬は、すべてを その場にいる誰もが、瞬は人に責められるようなことはしていないと思った。 「気付くだけなら、害もないだろう」 それが氷河の――他の誰でもない氷河の――言葉だったので、瞬は大きく首を横に振らないわけにはいかなかったのである。 「でも……!」 だが、それは――『気付いてもらうだけ』のことですらも――ノートなどに頼らず、自分で行なうべきことだったのだと、瞬は今ではわかっていた――後悔していた。 「おまえは、それを、いつ書いたんだ」 「に……2週間前」 瞬の答えを聞いて、氷河が軽く顎をしゃくる。 「俺は、それ以前におまえの気持ちに気付いていたから安心しろ。おまえはわかりやすい。確信は持っていなかったが、多分――とは思っていた」 「……」 氷河にそう告げられて、瞬は言葉を失った――衝撃を受けた。 氷河の言うことが もし事実なら、そのノートに書いた自分の願いは無効であり、結果的に自分は、頼るべきではないものに頼るという卑怯を為さずに済んだということになる。 そして、それが事実なら、氷河は―― 「氷河は僕の気持ちに気付いてて、なのに、知らない振りをしていたの?」 それが事実なら、氷河は、彼に好意を寄せる人間に好意を返すことができないから、あえてその気持ちに気付かぬ振りをしていたということになるのだ。 それ以外の可能性は考えられない。 つらい事実を知らされて、瞬は唇を噛みしめ、顔を俯かせた。 瞬の伏せられた青白い瞼を見やり、星矢や紫龍は、なぜ瞬はそういうふうに考えられるのかと、大いに訝っていたのである。 彼等は不思議でならなかった。 氷河が瞬を好きでいることなど、氷河を見ていれば誰にでもわかることである。 それこそ星の子学園のピー子ちゃんにもわかるような、それは明白な事実だった。 うぬぼれることができないのではなく、自己卑下が過ぎるのでもなく、瞬は氷河を見ていないのだとしか、彼等には思えなかった。 「そうじゃない」 瞬の推察を、静かな口調で氷河が否定する。 そして、彼は、ノートの瞬の記した一文の上に『瞬が氷河の気持ちに気付く』と記した。 「あ……」 そのページを示されて、瞬が目をみはる。 瞬は、恐る恐る顔をあげた。 瞬の目の前にいて、瞬を見おろしている氷河の瞳は熱っぽく、それは確かに恋をしている者の瞳だった。 彼のその青い瞳には、瞬の姿だけが映っている。 「で……も……だったら、なぜ……」 「多分そうだろうと思っても、自信家になりきれないのは、恋する者の宿命のようだな」 瞬が口にしようとした言葉を遮り、その言葉が発せられていたならば為されていただろう やりとりを省いて、氷河は結論だけを瞬に示した。 「だが、確かにこんなものに頼るのはよろしくない。おまえの言う通り、これは沙織さんに処分してもらうことにしよう」 「氷河……」 瞬には、自分が泣いているのか笑っているのかがわからなかったのである。 今のこの幸せが、ノートの力によるものなのか、そうではないのかも、瞬にはわからなかった。 ただ、そのノートがたった今消えてしまっても、このノートとの出合いそのものがなかったとしても、自分はいつかは今と同じ気持ちで氷河の前に立つことができていたはずだと思うことはできた。 たった一度、勇気を出して氷河の瞳を見詰めれば、それは簡単に至ることのできる場所だったのだ。 氷河が勝手に決定してしまったことに、今度は星矢も物言いをつけることはしなかった。 氷河と瞬がくっついてしまったとなれば、星矢にも紫龍にも、他にそのノートを使う当てはなかったので。 |