- II -






寝坊な大先生がヒョウガに面会を求めて王宮にやってきたのは、翌日の夕刻だった。
取次ぎの者から彼の来訪を知らされた時、ヒョウガは、寝坊な大先生らしい訪問時刻に 冷めた気持ちで苦笑した。
昨夜から、ヒョウガの気分はずっと沈んだままだったのだ。

ヒョウガが昨日の閲覧室に足を踏み入れるや、大先生は挨拶ひとつなく、大声でわめきたて始めた。
「塩だ! 塩です。土に濃度の濃い塩が混じっている! なんてことだ。まるで、今年降った雨がすべて海水だったとしか思えない! そうでなかったら、海水が突然大地を浸食し始めたんだ!」
「塩?」

ヒョウガはもちろん、大先生の言葉に驚いた。
土に濃い塩が混じっていたのでは、植物が育たない――死にかけるのも当然のことである。
なぜそんなことが起こったのかとヒョウガは訝り、また同時に、彼は大先生の目のつけどころに感心もしたのである。
「土に目をつけるとは。さすがはエティオピア一の大先生だ」
ヒョウガの目に、大先生は、命じられた事柄を命じられた通りに調査することはできても、そこから新しい仮説を打ち立てることのできる学者には見えていなかった。
広範囲に土の性質が変わるなどという突飛な発想ができる人間だとは、到底思えなかったのだ。

そして、ヒョウガの見立ては事実に即していたらしい。
ヒョウガの称賛の言葉を聞くと、彼は訝るような顔をして左右に首を振った。
「昨夜遅くにシュン様から使いがきまして、土の性質が変わっていないかどうかを調べるように言われたんです。今朝いちばんで各地の農園の土を運ばせ、半日泥遊びをして調べたんですよ。あなたのご指示と伺いましたが」
「俺はそんな指示は出していな――」
言いかけた言葉を、ヒョウガが途中で途切らせる。
そうして彼は、昨夜、シュンがそこにいることに気付かずに自分が呟いた言葉を思い出した。

『これではまるで、エティオピアの植物が、突然 徒党を組んで土に反乱でも起こしたようだ』
何の気なしに、笑えない冗談のつもりで――つまりはありえないことのつもりで――口にした戯れ言。
もしシュンがその呟きを気にとめて、農作物ではなく土の方の調査を大先生に命じたのだとしたら、エティオピアの王子は のんきどころか、かなり頭がまわる少年である。
もしくは、おそろしく勘がいい少年だった。

ともあれ、原因がわかれば対応策を講じることができる。
エティオピアの広い国土に塩を撒くことは、どう考えても人に為せるわざではない。
ある日突然 エティオピアの国土の大半の性質が変わってしまうはずもない。
これはやはり神の仕業と考えるしかなかった、
そして、そんなことのできる神は、ただ一柱しかない。

「海神ポセイドンの仕業と考えるのが妥当だろうな」
「え……」
大先生は、『今年降った雨がすべて海水だったとしか思えない』『そうでなかったら、海水が突然大地を浸食し始めたんだ』と幾度も、『海水』という言葉を用いて現状を表現することをしていたというのに、これまでその神の名を思い浮かべてもいなかったらしい。

「それで、海から離れた山間部の不作が深刻でないことにも納得がいく。海水が直接エティオピアの土を侵し始めたにせよ、雨となって大地に染み込んだにせよ、海岸から離れるほどに その影響が小さくなるのは道理だ」
大先生は、命じられた調査を着実にこなし、過去の事例に沿って物事を判断することはできても、新しい視点を発見し仮説を立てることのできない学者なのだ。
しかし、彼がすぐにそれをポセイドンの為したことと考えなかった理由は、ヒョウガにもわからないではなかった。

ポセイドンは、ヘラやアテナとはしばしば対立することもあるが、アフロディーテとは良好な関係を保っている神である。
対立どころか、二人の仲は むしろ親密で、二柱の神の間にはエリュクスという息子もいるはずだった。
ポセイドンが、アフロディーテの守護するエティオピアに害するなど、大先生には考え及ばないことだったのだろう。
これほど大きなことのできる神はポセイドン以外にはいないと半ば確信を抱きつつ、ヒョウガ自身も自分の言い出したことが にわかには信じ難かった。






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