落陽

- I -







アテナのために。
アテナの掲げる正義のために――。

「そういう価値観しか与えられなかったから、あの者たちは そなたの聖闘士として闘ってきたのだ。そういう生き方を強要され、他の生き方が許されなかったから」
炎の色の髪をした太陽神は、彼の足許に倒れ伏している人間たちに短い一瞥をくれるのも億劫そうな様子で、彼の同胞に告げた。
「年端もいかない幼い子供たちに随分と無体なことをして、そなたの下僕に仕立て上げたというではないか。気の毒に」
アポロンの声は、アテナのために闘い倒れた者たちに全く同情していない。
それゆえに なお一層、沙織の胸は痛んだ。

「自由な人間として、自分の意思でどう生きるかを決めることが許されていたならば、あの者たちは、決して そなたのために闘おうなどとは考えなかったであろうよ。地上を這いまわる虫たちには、それにふさわしい幸福というものがある。自分たちの頭上に空があることに気付くことなく、太陽を見詰めようなどということを考えさえしなければ、あの者たちは一生を幸福に生き、そして幸福なまま死ぬことができていたのだ。あの者たちの幸福な人生を奪ったのは そなただぞ、アテナ」

沙織は返す言葉を見付け出せなかった。
人間を神より劣ったものと決めつけるアポロンの物言いには怒りを覚えるが、彼の言うことは、いつも彼女が考えていたことと同じだったから。

彼女は、彼女の聖闘士たちを愛していた。
城戸沙織という一人の人間にとってはもちろん、女神アテナにとっても、今アポロンの足許に倒れている5人は特別な人間たちだった。
だからこそ、ハーデスの復活を知った時には、彼等を闘いの場から遠ざけようともした。
他の聖闘士たちがハーデスとの闘いで命を落とすようなことがあっても、彼等だけには生き延びてほしかったから。
彼等は不遇で健気で、そして若かったから。

地上の平和を守り、人々を等しく愛すべき女神には許されないことだとわかっていても、彼女にとって彼等は特別な聖闘士だったのだ。
彼等5人に向けられる自らの愛情には、多分に負い目が含まれていることに、沙織は気付いていた。
彼等を不幸にしたのは城戸沙織という高慢な娘であり、彼等を闘いの場に引きずりだしたのはアテナという冷酷な女神である。
彼等は、城戸沙織にとって、アテナにとって、誰よりも幸せになってほしい“人間”たちだった。

「しかし、一方的にそなたを責めるのも片手落ちというものだ。過去・現在のそなたの言動もまた、他者から押しつけられた価値観によって作られたものなのだからな」
アポロンは、神よりも人間を愛しているアテナを 暗に否定しているようでもあったが、そうとばかりは言い切れないようにも見えた。
彼は、自分を最も強大な力を持つ神の一人と自負するがゆえに、あらゆることに無定見で不真面目なのだ。
何ごとかを真剣に思い詰めることがない。

沙織は、そんな彼に不快を覚えたが、戦いの女神の気分など歯牙にもかけていない様子で、太陽神は ふいに奇妙なことを言い出した。
「アテナ。ひとつ試してみようではないか。自由な意思を与えられた時、あの者たちがどのような生き方を選ぶのか」
アポロンはいったい何を思いついたのかと、アテナは訝った。
気まぐれな太陽神の真意など真面目に考えたところで、それは十中八九徒労に終わるのだろうことはわかっていたのだが、今、彼女の聖闘士たちの命は、この気まぐれな神の手に握られている。
アテナは、僅かな隙、僅かなチャンスも見逃すわけにはいかなかった。

「あの者たちの記憶を奪ってみよう。そして、別々に それぞれの暮らし慣れた場所に送り返す。それでも あの者たちがそなたの許に戻ってきたならば、あの者たちのアテナを信じる気持ちは、誰に強要されたものでもない真実のものであると認めてやってもいい」

アテナがその提案――アポロンにとっては、気まぐれな遊戯――を受け入れたのは、もし今 彼の提案を拒絶してしまえば、彼の遊戯の道具にもなり得ないものとして、彼女の聖闘士たちは即座に彼の手にかかって壊されるだけだということがわかっていたからだった。
そして、もし、彼女の大切な5人の聖闘士たちが 聖闘士としての自分自身を忘れてくれたなら、彼等は闘いの日々から遠ざかることができ、それは彼等にとっては 非常に幸福なことだろうと思ったからだった。

アポロンの笑みは、沙織のそんな考えもすべて見透かしたようにふざけ・・・ていた・・・
「退屈なのだよ、私は。そなたと手を携えて、地べたを這いつくばって生きているウジ虫共を次々に踏み潰してやったなら、さぞかし愉快だろうと思っていたのに、そなたはそのウジ虫共が愛しいと言う。私はすっかり興が冷めてしまった。そなたには、私を楽しませる義務がある」

「よろしいでしょう」
沙織はアポロンに頷いた。
「その結論が出るまで、地上の人間たちには手出しをなさらないとお約束いただけるのなら、私は あなたの遊びにお付き合いいたしましょう」
うまくすれば――彼等がアテナの聖闘士としての記憶を取り戻さず一生を平穏に終えてくれたなら、その時まで――、人類は地上を滅ぼし去ろうとするアポロンの冷酷を免れることができる。
それは、アテナにとっても益のない遊びではなかった。

人の一生は、不死である神にとっては瞬きの間ほどの短い時間である。
ゆえに、神にとって時間は無意味無価値なものであり、人間にとっては この上なく大切なもの。
沙織は、その短い時間を、彼女の聖闘士たちの幸福のために確保してやりたかった。
アポロンのおふざけに付き合えば、その望みが叶うのだ。
アテナの返答を受け取ったアポロンは、人間たちだけでなくアテナをもなぶるように、高慢そうに笑った。






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