城戸邸に似つかわしくない白い大衆車が、エントランスホールの監視モニターに再びその姿を映しだしたのは、翌日の午後のことだった。
その男は、瞬の友人だと名乗って城戸邸の客間にあがりこみ、それだけでも十分に図々しいというのに、ふいの来客に驚いて客間にやってきた瞬に対して、もう1日自分に付き合ってくれと、更に図々しい要求を突きつけてきたのである。

「1度だけって言われたから、僕はあなたにお付き合いさせていただいたんです。それに、僕、今日は氷河と国立新美術館に行こうって、前から約束してましたし――」
いかにも図々しく、見るからに軽薄そうな男とはいえ、相手は瞬より年上である。
瞬は目上の人間からの頼みを邪険に断ることもできないらしく、歯切れの悪い敬語を連ねていた。
そして、『いやだ』の一言を言えない瞬は結局、同席している氷河にちらりと視線を投げて、この事態を打破するための口添えを彼に求めることになったのである。

来客は、城戸邸の客間のいかにも高価そうな調度に気後れし、瞬の傍らに見張りのように貼りついている氷河の、到底親しみやすいとは言い難い険しい目にびくついているようだった。
しかし、それでも後に引けない事情というものが、彼にはあったらしい。
「頼むっ。今朝学部長から電話があって、どうしても君が話していたギリシャ語をもう一度聞きたいと言ってきたんだ! 君が話してるのは現代のギリシャ語じゃないとかで、かといって古代のものとも違うし、どこで覚えたのかをぜひ知りたいと――」

腰が引けていながら図々しさを極めている学生は、今にも土下座せんばかりの勢いで、瞬に言い募った。
「僕は来年、4年生になるんだ。去年から就職活動を続けてるけど、まだ一つも内定をもらえていない。女子ならともかく文学部の男子は、就活では色々と不利なことが多くて、でも学部長の推薦をもらえたら、話は全く違ってくる。僕はここでできるだけ学部長のご機嫌をとっておきたいんだ。今日、君が僕と学部長のところに行ってくれるかどうかに、俺の一生がかかっていると言っていい」

「貴様の一生が、瞬にどう関係あるというんだ」
必死の形相で訴えるリクルーターに、しかし、氷河は冷たく言い放ったのである。
氷河は、『その気になれば、人は何をしてでも生きていけるものだ』という考えの持ち主だった。
現代の日本では終身雇用制という制度は ほぼ崩壊している――ということも、知識として知っている。
この時代にこれほど就職活動に必死になっている この学生は、ある意味では非常に生真面目な人間なのかもしれないとも、氷河は思った。
しかし、氷河には、見ず知らずの学生の一生のために、瞬と過ごす時間を提供する義理も義務もなかったし、それは瞬も同様なのだ。

「どうせ、風邪をひいた彼女の代理なんてのも嘘だったんだろう? そのまま、なし崩し的に瞬と付き合い続けられたら もっけの幸いとでも考えて、貴様は瞬に声をかけた」
「え」
そろそろ本当に土下座をするのではないかと思えるほどに上体を前のめりにしていた学生の顔が、氷河のその言葉によって盛大に強張る。
弁明の一つも返ってこないところを見ると、氷河の指摘は図星だったらしい。
それまで一生の岐路に立っている学生に同情的だった瞬は、初めて微かに顔を歪めた。

「僕は、あなたが困ってるって言うから、1度だけの約束でお付き合いしただけで――」
「ほ……ほんとに困ってるんだ! 昨日のは嘘だったけど、今日困ってるのはほんとなんだ!」
ここで瞬の同情を失ったら身の破滅といわんばかりの形相で、彼は瞬に食い下がってきた。
だが、昨日の発言は嘘だったが、今日の言葉は嘘ではない――などという都合のいい主張が、容易に人に信じてもらえるはずがない。

瞬でさえ彼への不信感を消し去れずにいるのである。
最初から彼に好意的でなかった氷河はなおさら、彼のそんな言葉を信じるわけがない。
「見苦しい言い訳はやめろ」
彼は にべもなく彼を突き放した。
が、すぐに氷河は何事かを思いついたような顔になり、追い詰められた学生に意味ありげな視線を向け直したのである。
「いや、事と次第によっては、瞬を貸してやらないこともないぞ」






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