何年も前に ただ一度会ったことがあるだけの婚約者に、彼が本気で恋をしているのだとは考えにくい。
考えにくいのに、彼の瞳は、昨日別れたばかりの恋人に、一人だけで過ごす長い一夜を耐え抜いて再会した者それのように、喜びで輝いていた。
こうなると、瞬も、さすがに彼の婚約者から逃げ出すわけにはいかなくなる。
沙織に視線で促され、瞬はしぶしぶ、ほぼ初対面の婚約者のいる客間に足を踏み入れることになったのだった。

突然現われた婚約者にどう挨拶したものかを暫時迷ってから、特段 気の利いた言葉も思い浮かばなかった瞬は、
「は……初めまして」
と、某大企業の御曹司に挨拶し、軽い会釈を返した。
それが最も無難な挨拶だろうと、瞬は思ったのである。
確かに無難ではあったかもしれないが、それは、瞬の婚約者を喜ばせることのできる言葉でもなかったらしい。
なにしろ彼は、今日“初めて”瞬に会ったのではなかったのだから。

軽い落胆と傷心をその胸に抱いたらしい御曹司は、だが、すぐに巧みに自らの感情を押し隠してみせた。
そして、至って自然に見える笑みを瞬に向けてくる。
「先日、国際芸術祭の会場でお姿をお見かけしました。追いかけたかったのですが、私は父の名代として あの場に行っていたので、色々と挨拶にまわらなければならないところがあって――」

2日前、瞬は確かに彼の言う通り、沙織からもらったチケットで そのイベントに出掛けていた。
グラード財団と共に井深電器産業グループが、そのイベントに協賛として名を連ねていたことを思い出す。
当然、彼は、挨拶をして回る側ではなく、挨拶を受ける側の人間として、そのイベント会場に行っていたのだろう。
「すぐにわかった。僕は、ずっと、瞬さんは帰国予定のわからない海外留学をされていると聞いていたんです。帰国なさっていたとは知らず、挨拶に来るのが遅れてしまいました。申し訳ありません」

勝手に親族によって決められた婚約者の存在を、彼は全く不快に思っていないらしい。
数年振りに間近に見る婚約者に向けられる彼の瞳は、どう見ても、婚約者との再会を待ち焦がれていた人間のそれである。
彼の瞳は、自分の婚約者への好意と再会の喜びにあふれていた。
瞬が、つい気後れを感じてしまうほどに。
「芸術祭では、金髪のお連れがいらしたようだったが」
「あ……はい」
「お友だちですか」
「……はい」

廊下にいる氷河の小宇宙が冷たく燃え上がるのを感じとれて、瞬は身体を縮こまらせてしまったのである。
そして、これではまるで、夫に見られていることを承知しながら、間男にいい顔をしてみせている浮気妻のようだと思った。
恋人と婚約者のいったいどちらが 自分に対して貞操義務を求める権利を有しているのか、それは瞬自身にもわからなかったが。

しかし、瞬としても、ここで彼に「あの時の連れは、僕の同性の恋人です」と言うことはできなかったのである。
自分に好意と善意だけを――しかも礼儀正しく――向けてくる人を、誰が好んで傷付けたいと思うだろう。
瞬にできるのはただ、いつ氷河が客間に乱入してくるかと はらはらしながら、なるべくその胸中の不安と焦りを表に出さないように努めることだけだった。

「僕の用向きはお聞き及びかと思いますが」
「は……はい」
瞬は顔を俯かせ、救いを求めるように、下目使いで沙織の方に視線を向けた。
しかし、沙織からの救いの手が瞬に差し延べられることはなく、瞬の婚約者の真摯な告白は続く。
「瞬さんには、もう約束された方がいるんでしょうか。僕は、遅れてきた男ですか」
「あ……あの、いえ……」

瞬がお茶を濁すつもりで告げた そのあやふやな返答を、御曹司は、まださほど親しくない婚約者に希望を抱かせるための言葉と受けとったらしい。
瞬の言葉を聞いた御曹司は嬉しそうに笑み崩れ、奥ゆかしく恥じらうように瞼を伏せている彼の婚約者に――瞬は決して奥ゆかしさから そうしていたわけではなかったが――きっぱりと宣言した。
「ならば、『初めまして』からで構いません。これから僕のことを気にかけてもらえると嬉しい。僕は、初めて瞬さんに出会った時から これまでずっと、瞬さん以外の人を妻にすることなど考えずにきました……!」

瞬は、許されることならば、いっそその場で泣き出したい気持ちになってしまったのである。






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