日暮れ近くになって、星矢と紫龍が白い渓谷に戻ってきた時、瞬は、彼等がこの場を立ち去った時と全く変わらない様子で、横たわる氷河を見詰めていた。
二人を二人きりにするために、仲間の身を案じながら過ぎるのを待った数時間が、実はほんの数分にすぎなかったのではないかと思えるほど、瞬は――瞬こそが氷の棺に自由を奪われてしまった者のように、動いていなかった。
ただ夕陽になった太陽の傾きとその色が、時間の経過と、まもなくこの白い渓谷が夜の闇に沈むことを、星矢と紫龍に教えてくれた。

「瞬、もう日が暮れる。おまえも戻ろう」
「だめ……だめっ! 来ないで! 見ないで!」
「瞬?」
二人の不幸な恋人たちは数時間前と何も変わっていないという認識が間違っていたことを、星矢と紫龍は、瞬のその悲鳴によって気付かされた。
瞬が仲間たちの目に触れさせまいとしているもの――それは、氷の棺を取り除かれた氷河の姿だった。
触れてみなくても、星矢たちには彼の死がわかった。
小宇宙が全く感じられない。

紫龍が、今はもの言わぬ亡骸となった仲間の脇に片膝をつく。
彼は、氷河の指が挟んでいるものがずっと気になっていたらしい。
それを じかに自分の目で確かめると、彼は低く呟いた。
「やはり、花を取ろうとしたんだな」
それは、このロシアの大地に最初に春の訪れを告げる小さな野草の白い花びらだった。

「おまえが氷河に絶交を言い渡した日、奴は俺のところに、瞬は何が気に入らなかったのかと訊きにきたんだ。事情を聞いて、俺は、瞬はおまえの買ってきた花の花言葉が気に入らなかったんだろうと教えてやった」
その通りだった。
瞬は、氷河が買ってきた花の花言葉が嫌で、その花を喜ぶことができなかったのだ。


『花っていうのは、全部“恋”というのが花言葉なんだと思ってた』
と、氷河は言ったのだそうだった。
『馬鹿か』
紫龍は氷河の無風流振りに呆れ、
『ここは、それこそ、“恋”を花言葉に持つ花でも奉げて、瞬の機嫌をとることだな』
と、彼にアドバイスした。

仲間の助言を受けて、しばらく何やら考え込んでいた氷河は、やがて、風雅の心を持ち合わせた仲間に尋ねてきた――らしい。
『“恋”より“希望”を花言葉に持つ花はないか。瞬は、その方が好きそうだ』
紫龍は無風流な仲間のために、パソコンでその手のサイトを検索し、待雪草まつゆきそうがその花言葉を持っていることを、彼に知らせてやった。

『春に咲く花だが、日本の普通の花屋にはないと思うぞ。野草だ。別名スノードロップ』
『ああ、十二月物語に出てくる花か。シベリアでは、春になると群れを成して咲く』
紫龍が示したパソコンのモニターの花の写真を見て、故郷の大地に咲く花の風情を思い浮かべた氷河は、その花なら瞬にふさわしいと思ったらしい。
そうして彼は、本気なのか、あるいは冗談だったのか、
『取りに行ってくるか』
と呟いた。

『動植物の類は、当局の特別許可をもらわないと、国外への持ち出しは禁止されている』
『ああ、そうか、そうだったな』
氷河は、その手の法律や条約の方が俺より よほど不粋だと、薄く苦笑した――のだそうだった。






【next】