たかが花の色が違っていたくらいのことで、なぜ瞬はあんなにも怒るのか――それが、氷河にはどうしてもわからなかった。 風で乱れた髪を直してやるだけのことにも、いつも嬉しそうに「ありがとう」の言葉を返してくれていた瞬が、特に切羽詰まって必要なわけでもないものをわざわざ買い求めてきてやった相手に、理不尽な怒りをぶつけてくる。 その理由が、氷河にはどうしても わからなかったのである。 やがて彼は、こういうことは、役に立たない知識ばかりは無駄に多く蓄えている男に聞くのがいちばんだろうと考え、その混乱から抜け出すために紫龍の部屋に赴き、彼の意見を拝聴することにした。 「買ってきた花の色が違っていただけのことで怒る人間がいるものだろうか」 氷河は、それしか言わなかったのだが、紫龍はそれだけで事情がすべて飲み込めてしまったらしい。 彼は、すぐに氷河に尋ね返してきた。 「で、おまえはいったい瞬に何の花を買ってきたんだ」 すぐに わかられてしまうのも癪だったのだが、紫龍の推察は当たっているのだから仕方がない。 氷河は自身の不愉快を悟られぬように、殊更無表情を装って問われたことに素っ気なく答えた。 「赤かピンクのチューリップをと頼まれて、黄色のチューリップを買ってきた」 氷河の返答は、これまた紫龍の想定内のものだったらしい。 彼は、氷河に大袈裟に両の肩をすくめてみせた。 「そりゃ、怒るだろう。赤いチューリップの花言葉は『愛の告白』、ピンクのチューリップの花言葉は『愛の芽生え』だが、黄色のチューリップの花言葉は『望みのない恋』というんだ」 「花言葉? なんだ、それは」 そういうものがあることを、もちろん氷河は本当に知らないわけではなかった。 彼はただ、そんなものがそれほど重要なものだとは思っていなかったのである。 花は花ではないか。 美しく、その風情が瞬に似合っていさえすれば、それでいいものである。 紫龍は、氷河と瞬の意識の相違に苦笑せざるを得なかった。 だから彼は実際に苦笑した。 大陸的合理性と実質を価値観の中枢に置く氷河と、島国的精神論と形式を重視する瞬が恋し合っているのだから、この世というものは面白い。 「ま、瞬はデリケートだからな。おまえが意図的にそんなものを買ってきたんじゃないことはわかっていても、不吉で嫌だったんだろう。さっさと謝ってしまった方がいい」 「俺はそんなつもりはなかった。知らなかっただけだ」 「そういうのを注意義務違反による事故という。つまり、迂闊の罪だな」 「花言葉が気に入らなかったくらいのことで、あんなに臍を曲げるなんて馬鹿げている。瞬は俺を信じていないのか」 食い下がる氷河に、紫龍は我知らず眉をひそめることになったのである。 氷河と瞬の価値観が違っていることはわかるが、瞬に関することで ここまで頑なに意地を張る氷河は珍しい。 「おまえを好きだから、そんな些細なことでも嫌だったんだろう。共感しろとまではいわないが、理解して思い遣ってやれ。瞬を好きなら。それができないなら、さっさと別れることだ。価値観の相違は悲劇を招く」 「……」 『それができないなら別れろ』は、氷河にとっては最終警告だった。 価値観が相違していても、氷河の心と感覚は瞬を求めてやまない。 瞬を失うことは考えられなかったから、氷河は瞬に折れるしかなかった。 いつもそうしているように、今回も。 禁句を言われて黙り込んでしまった氷河に、紫龍が、今度は助言を垂れてくる。 「それらしい花言葉を持っている花を贈ってやれば、瞬はそれだけで許してくれるさ。瞬は意地っ張りなところもあるが、基本は素直にできている」 許してもらわなければならないことをした覚えはない――と、“意地っ張りな”氷河は思ったのだが、瞬がそれで笑ってくれるのなら折れてやるのもいいかと、“素直な”氷河は考えた。 同時に、ここで『恋』を持ち出すのは直截的すぎて芸がないと、“風雅な”氷河が深慮する。 「“恋”だの“愛”だのより――“希望”という花言葉の花はないか」 「希望?」 氷河は、日本人的婉曲と奥ゆかしさで、瞬に迫るつもりらしい。 相手の価値観を尊重しようと努めることは、人間の相互理解の第一歩である。 前向きな氷河のために、紫龍は彼のパソコンで氷河の求めるものを探し出してやった。 「 「ああ、あれが」 紫龍に指し示されたパソコンのモニターに映る花の写真を見て、氷河は、それが母の故国に春の訪れを告げる花だということに気付いた。 その純白の風情を思い出して、瞬に似合いそうだと思い、同時に、その可憐な花が北の大地に群れ咲く様を瞬に見せてやりたいと願う。 しかし、瞬にその花の群生を見せてやるには、何よりもまず瞬と仲直りすることが先決だった。 が、瞬と仲直りをするためには、待雪草を手に入れなければならない。 この背反する事態をどう解決したものか――。 氷河がそんなことを考えあぐねている時だった。 シベリアに不穏な動きがあるという情報が入ったので、調査に行ってほしいという要請が、沙織からあったのは。 |