シベリアに着いてから半月、氷河はわざと仲間たちの許に連絡を入れなかった。
アンバルチク一帯に響く化け物の声の正体はすぐにわかり、それを壊すことで、沙織に命じられた件は早々に対応・解決したのだが、氷河はどうにも日本に帰る気になれなかった。
一つには、見たいと思っていた待雪草がまだ咲いていなかったから。
そして、氷河に帰国をためらわせる もう一つの理由は、音信不通になった仲間の身を心配した瞬が、こちらに来てくれるのではないかという期待があったから――だった。

しかし、半月後、氷河の身を心配して連絡を入れてきたのは、瞬ではなく女神アテナその人の方だった。
「足を怪我して動けないでいるんです」
氷河が彼女に嘘をついてしまったのは、そういう話を聞けば、いくら意地っ張りな瞬でも 慌ててシベリアに飛んできてくれるに違いないと思ったからだった。

その嘘が瞬に無用の心配をさせるもので、自分の言動は大人げないどころか卑劣ですらある――という認識に至るために、氷河は一晩の時間を要した。
シベリアの地に咲く白い花を使って瞬と仲直りすることは諦め、これ以上 意地を張らずに瞬の許に帰るべきかと、落ち着きを取り戻した氷河の理性が考え始める。
それでも――瞬に あの花の清楚な姿を見せてやりたいと願う気持ちが、嘘を嘘だったと瞬に伝える決意を、氷河にさせてくれない。
一向に花を咲かせる気配のない北の大地にも苛立って、氷河はその日、白い大地を見ずに済む場所――東シベリア海を臨む浜へと出掛けることにした。

地球温暖化の報が嘘のように、彼の母が眠る海は、まだ固く凍りついていた。
ロシアの歴史は、不凍港を求めて南へ下る戦いの歴史だと言われている。
彼等の行動の主目的は軍事面・経済面にあったのだろうが、そこには心情的なものも大きな影響を及ぼしていたのかもしれない――と、灰色の海に対峙した氷河は思ったのである。
波の音のない海は死の世界そのものに見えた。
そして、そこに佇む人間は、ひしひしと孤独感を感じることになる。
そんなものを好む人間は、あまり多くはいないだろう。
かつての彼は、まさにそういう人間だったのだが。

だが、氷河は――今の氷河は――氷で覆われた死の世界にいる母のところへは、もう行くことはできなかった。
カミュの手によって以前より深いところに沈められてしまった、若く美しい母。――いつまでも若く美しい女性。
かつては、彼女との美しい思い出が、それを守ることが、彼を生かす力となっていた。
黄金聖闘士をも凌駕する力を得た今の自分なら、そこに行けないこともないだろうとは思うが、氷河は もはやその冒険に挑む気にはなれなかった。
彼は、音のない死の国の母よりも美しいものを見付けてしまったあとだったのだ。

生きており、微笑み、拗ね、抱きしめれば抱きしめ返してくれるもの。
あの温もりに勝るものは、この世界に存在しない。
そう思うと、氷河の胸には、自分のついた嘘を悔やむ心が再び浮かびあがってきた。
紫龍に忠告された通り、瞬が喜びそうな花を捧げて、さっさと謝罪してしまえばよかったのにと、愚かな男を無言で責める海を見ながら、思う。
思って、氷河が、自らの卑劣な嘘を清算するために瞬に連絡を入れる決意をし、母なる海に背を向けようとした時、彼は、浜から1キロほど沖合いの氷の上に何かが乗り上げていることに気付いたのである。

「人?」
そういえば、昨夜は東シベリア海からラプテフ海にかけての時化しけがひどかったらしい。
それでなくても、この氷の海の沖合いには船の航行を妨げる氷山や流氷の類が相当数 漂流している。

この沖合いは、オホーツク海で獲れたカニをベーリング海峡を経由してロシア本土に運ぶ船の往来が多く、密漁船・密貿易船の類も横行しているという話だった。
浜は凍っているが東シベリア海と北極海は氷で陸続きになっているわけでもなく、この時季にも船の航行は可能なのである。
昨夜の時化で難破したその手の船の船員か船の荷でも流れ着いたのかと思い、氷河は、凍った海の上を沖に向けて駆けだした。

――それは見誤りなく人間だった。
だが、たくましい海の男には見えない。
むしろ、細く華奢な子供に見える。
海難事故に合ったのは、漁船や密貿易船ではなく客船だったのだろうかと、氷河は訝った。
しかし、違法に航行する船ならともかく、まともな客船が、悪天候がわかっている東シベリア海に向けて出港の許可を得られるはずがない。

子供じみて華奢なその人間は、氷の上に横たわったまま、ぴくりとも動かなかった。
生きている方がおかしなこの状況ではあったが、一応その生死を確かめるために、氷河は子供の身体を抱き起こし――そして、彼は息を呑むことになったのである。
それは、ここにいるはずのない人だった。
氷河にとって最も近しく親しい人、日本で意地を張っているはずの人だったのだ。

真昼のシベリアの海は、不気味なほどの沈黙を守っている。
氷河は自分が何か悪い夢を見ているような、間違った世界に足を踏み入れてしまったような、そんな錯覚を覚えた。
音だけでなく、光も時間も、この世界にあるすべてのものが、動きを失ってしまっていた。






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