4、5時間もそうしていただろうか。
ヤコフが来て、何か叫んでいたような気もしたが、その声は氷河には海鳴り以上の音に聞こえなかった。
シベリアの海は凍っている。
海鳴りなど聞こえるはずがないのに、氷河の耳の中では、重苦しい海鳴りとしか思えない音が絶え間なく鳴り響き、氷河が何事かの思考を形作ることを邪魔し続けた。

氷河の無反応に焦れて引き返していったヤコフが次に浜に戻ってきた時、彼は瞬の仲間たちを伴っていた。
彼等は、氷河が抱きしめているものが何なのかに気付いたらしく、氷河の背後にしばらく無言で立ち尽くしていた。


「瞬の乗った船が……夕べの時化で大破したって知らせが入って、それで、俺たち、急いで飛んできたんだ……」
長く思い沈黙に耐え切れなくなったらしい星矢が、やがて、自分の声が氷河に届いているのかどうかも確かめずに、事の経緯を語り始める。
その“音”に何の反応も示さない仲間に、彼はその先を語ることをやめた。
紫龍が、星矢のあとを引き継ぐ。

「おまえが怪我をしたという話を聞いて、瞬はすぐにシベリアに向かおうとしたんだ。沙織さんがジェットヘリを用意すると言ってくれたんだが、元が自分の我儘だったから、瞬は遠慮したらしい。普通の旅客機でハバロフスクのノビイ空港に向かい、そこで乗り換えてアンバルチクに向かうつもりだと言っていた。だが、瞬の乗った飛行機は、あいにくの悪天候でノビイ空港には着陸できず、コテリヌイ島の空港に向かったんだ。そこで天候の回復を待てばよかったんだろうが、海を挟んだだけで、直線距離ではハバロフスクよりずっとおまえに近いところに着いたわけだからな……」

それで瞬は焦り、乗るべきではない船に乗り込んでしまったというのだろうか。
コテリヌイ島の天候は良好だったとしても、アンバルチクの港はまだ凍っているのだ。
まともな方法での接岸は最初から期待できないというのに。
「救命ボートには乗れなかったんだろう。瞬は、出向間際の船に無理を言って乗せてもらったらしいし」
紫龍の説明は、氷河には、やはり海鳴りにしか聞こえていなかった。
声は聞こえているのだが、それが意味を成していない。
氷河にとっての事実は、今 彼の腕の中にいる者が息をしていないということだけだった。

「こんな馬鹿なことがあるか……。瞬は聖闘士だぞ」
「おまえから連絡がなくて、瞬の奴、ここ数日、ろくにメシも食ってなかったんだ。おまえが怪我したって聞いて、気が急いてたはずなのに、でも、元が自分の我儘だから、沙織さんの厚意に甘えるわけもいかないと思ったらしくて――」
経緯を告げることは、不幸な二人を責めることに繋がる。
その事実に気付いて、星矢は再び言葉を途切らせた。

「怪我なんて嘘だ。そう言えば、瞬が来てくれると思って――」
氷河はそう思って――浅はかにもそう思って――その時には自分が嘘をついているという意識すら抱かずに、沙織にそう言ってしまっていたのだ。
あの時、氷河はただ、春に咲く待雪草の花を瞬と二人で見たいと思っていただけだった――。
「俺が意地を張らずに、さっさと帰っていれば……詰まらない嘘をついたりさえしなければ――」
自身の浅慮を悔やみかけ、だが、氷河はすぐに その後悔を否定するように微かに首を横に振った。

「いや……これは何かの間違いだ……。こんなのは瞬じゃない。俺の瞬はいつも笑ってて、泣いて、意地を張って、可愛くて――こんな……こんな人形じゃない。死人じゃない。俺の瞬は生きている瞬だ。俺の瞬は、こんなに冷たくない……!」
己れに言い聞かせるように低く呻きながら、冷たい瞬の身体を強く抱きしめ続ける氷河に、彼の仲間たちは痛ましげな目を向けることしかできなかった。

「ロシアの海運局に瞬が見付かったと連絡を入れないと……。まだ探してくれてるんだ。報告しないと、瞬を日本に連れて帰ることもできないからな……」
何を言えばいいのかわからなくて、星矢は、彼自身もどうでもいいと思っていることを呟いた。






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