「沙織さん……。なんか、あの二人――ほんとに大丈夫なのか?」 城戸邸の北の棟の端にあるコンピュータールームの二つの100インチモニターには、数時間前に氷河と瞬の部屋に設置されたばかりの監視カメラが捉えた二人の寝顔が映し出されていた。 二人の仲間の、到底 安らかとは言い難い寝顔を見やりながら、星矢が不安そうに呟く。 そして、星矢の懸念は、同時に紫龍の懸念でもあった。 「こういうことは、グラードの医療センターとか病院とか、せめてもっとちゃんとした施設で行なった方がいいのでは……」 沙織の暴挙を、紫龍は極めて婉曲的かつ遠慮がちに責めてみたのだが、おそらく彼に面と向かって罵倒されていたとしても、彼女の返答は変わらなかったに違いない。 「あら、夢を見させるグッズなんて、今時、どこにでも売っているのよ。知らない? 好みの夢を見ることができるという触れ込みで、アロマテラピーや音楽を使った夢作りグッズが数千円程度の値段で売られているのを」 仲間の身を案じる星矢と紫龍に、女神アテナは罪悪感のかけらも感じていない顔を向け、実にあっさりと言ってのけた。 彼等の周囲には、午前3時という時刻にも関わらず、グラード総合研究所の所員が十数人いて、彼等は氷河と瞬がコンピュータールームに送ってくるデータの記録作業にいそしんでいる。 すっかり実験モルモットにされている氷河と瞬に同情しつつ、また、このモルモット扱いも明日は我が身と恐れおののきつつ、紫龍は沙織に食い下がった。 「これはそういう玩具の類とは違うでしょう。そんな玩具は、脳を刺激する電流を流したりはしませんよ! 氷河と瞬の心拍数や脳波の様子はさっきからずっと尋常じゃない。活動が異様に激しくなったり、ほとんど動きが見られなくなったり――危険です」 沙織の説得は無理でも、せめて彼女の指示でこの場にやってきた研究所員の賛同は取りつけたい。 紫龍の口調は、かなり真剣なものだった。 氷河と瞬の喧嘩の理由を聞いた沙織が、グラード財団が出資運営している総合研究所から十数人の研究員と共に怪しげな機械を城戸邸に運びいれたのは、数時間前。 それは、微弱な電気信号を人間の脳の各部に送り、夢という刺激を与えるための機械だった。 大脳の機能の一部を失って意識がない状態――つまりは植物状態――の患者の回復を目的に開発されたもので、アルツハイマー型痴呆の治療にも有効なのではないかと期待されている“実験段階の”機械。 喧嘩中の二人がそれぞれの部屋で就寝したのを幸い、沙織は、二人の部屋に催眠ガスを噴射して、二人の身体に“実験段階の”機械の端子を取りつけ、その様子を観察するためのカメラまでを室内に設置するという、荒業をしてのけたのである。 電気信号に変換された二人の脳波や心電のデータは、コードレスで、このコンピュータールームの受信機に届けられていた。 「あの二人は、いったいどういう夢を見せられているんですか」 「瞬は氷河が死んだ夢、氷河は瞬が死んだ夢を見ているはずよ」 「うわ……」 よりにもよって そんな残酷な夢を、沙織は、彼女の掲げる正義と理想のために命を懸けて闘ってきた二人の脳に、情け容赦なく送り込んでいるのである。 人類に対する寛大と慈愛を売りにしているはずの女神アテナの冷酷な所業を、星矢は責めないわけにはいかなかった。――藪をつついて蛇を出すのは不本意だったので、言葉にはせず、その視線だけで。 しかし、沙織は星矢の非難の眼差しごときには、全く動じなかったのである。 沙織にそんな無慈悲をさせるだけの悪行を、氷河と瞬はしでかしたのだ。 「人間にはね、想像力というものがあるのよ。こんな機械の力を借りなくても、誰だって、そんなこと簡単に想像できるはずでしょう。自分にとって誰よりも大切な人を、もし失ってしまったら、自分がどんな気持ちになるかなんてことくらい、氷河と瞬にも簡単に想像できるはずなのよ。二人が馬鹿でないならね!」 沙織のきつい口調は、どう考えても、氷河と瞬を『馬鹿だ』と決めつけている口調だった。 女神の怒りの程が知れて、星矢と紫龍は全身を震えあがらせたのである。 「その簡単なことをしないから、あの二人は馬鹿げた痴話喧嘩を何日も続けることになるの。迷惑をかけられる周りの人間のことも考えてほしいものだわ!」 だが、アテナの聖闘士を震えあがらせる沙織の怒りは至極当然、極めて妥当なものだったのである。――少なくとも沙織にとっては。 ここ数日――氷河と瞬が絶交状態に突入してから――城戸邸のあちこちで異変が起きていた。 庭のバラ園のバラが突然すべてブリザーブドフラワーになったり、城戸邸の庭のど真ん中に、まるで隕石が落下したような巨大な大穴が突如出現したり。 その他にも、食器棚にしまわれていたパーティー用の食器が一瞬で全滅したり、種類ごとの適温が厳重に保たれているワインセラーの温度が急上昇・急下降して、高価なワインが数百本単位で飲むに耐えないものになったりと、小さな異変を挙げればきりがない。 原因は、氷河と瞬の尋常ならざる小宇宙の力だった。 「しかし、氷河と瞬は、それを無意識のうちにやっているようですし」 「無意識で庭を穴だらけにされたり、庭の花を全滅させられたりしたら、たまったものじゃないわ! うちの庭はね、春夏秋冬、すべての季節にその美しさを楽しめるように、計算され尽くして設計されたものなのよ。お祖父様が丹精込めて作った、私の大切な庭を滅茶苦茶にして……!」 食器やワインは金で 金で贖えないものを壊されてしまったからこその、沙織のこの激怒だったのだ。 沙織の気持ちは、星矢たちとてわからないわけではなかった。 わからないわけではなかったのだが――。 「あの二人を懲らしめたい気持ちはわかりますが、これであの二人が本当に死んだり廃人になったりすることになったら、アテナに従って地上の平和を守るための要員が減ることになりますよ」 紫龍が、沙織に想像力を働かせることを求める。 金で贖うことができないのは、アテナの聖闘士とて、彼女の思い出の庭と同じなのだ。 さすがに沙織は、氷河と瞬のように機械に頼らなくても発揮できるほどの想像力を持ち合わせていたらしい。 彼女は、彼女が持てる想像力を駆使することによって、紫龍の言葉が事実であることを認めることになった。 「……そうね。そろそろ目覚めさせてやってもいいかもしれないわね」 寛大な女神の言葉に、紫龍と星矢がほっと安堵の息を洩らす。 彼等は、こんな馬鹿なことで、大切な二人の仲間を失いたくはなかった。 「そうしてください。瞬がずっと泣きっぱなしだ。氷河は心臓と脳波は瀕死の重病人のように弱まっている」 「二人共、死ぬほど反省してるって。これに凝りたら、もう二度と喧嘩なんてしないだろ。あの二人は馬鹿じゃないんだから」 沙織の言葉を逆手にとって、星矢が沙織の慈悲を乞う。 「そうねえ……」 寛大にして慈悲深い女神は、『過ぎたるは及ばざるがごとし』という言葉の意味を知っている聡明な女神でもあった。 その上、判断力と決断力にも優れている。 氷河と瞬を廃人にしてしまうことは、アテナに対する星矢と紫龍の信頼を損なうことでもあり、これ以上 この懲罰実験を続けると、アテナの許には“使える”青銅聖闘士が一人もいなくなってしまいかねない。 豊かな想像力で最悪の未来を想像した彼女は、その事態を避けるために、コンピュータールームにいた研究所員たちに実験中止の命令を下したのだった。 「じゃあ、急いで二人に取りつけた器具を外して。氷河と瞬には、これは ただの悪い夢だったと思わせるのよ」 沙織の決定に、星矢と紫龍は緊張させていた身体から大きく力を抜いた。 が、彼女の指示を受けたグラード総合研究所の所員たちの顔には、一様に、彼女の決断を遺憾に思っているような表情が浮かぶことになったのである。 彼等にしてみれば、こんな危険な実験の被験者を同意書なしで得られる機会は滅多になく、この実験の中断は無念至極なものだったらしい。 己れの我儘を問答無用で実現できるだけの力を有しているアテナも恐ろしいが、仕事熱心な一般人は なお恐い。 彼等に比べれば、アテナの聖闘士など繊細の極みの存在だと、星矢と紫龍はしみじみ実感したのだった。 |