原罪の宿り

[ I ]







原罪とは、神の主権への反逆である。
旧約聖書創世記において、イブを誘惑した蛇が何者であったのか、アダムとイブが食した善悪を知る木の実・禁断の果実とは何であったのか、それは何を意味するのか――そういった事柄の解釈は幾通りもあるが、ともかく、神の被造物である人間が神の意思に反した、そのこと自体が原罪なのだという考えは、多くの宗教家・神学者の中で意見が一致している。

ところで、神の意思に反して、人類の始祖が為したこと――それを性行為であるとする説は、原罪を免れているとされる処女マリア信仰との兼ね合いもあり、フランシスコ会の昔から有力な解釈だった。
イブは、彼女と彼女の夫となるべきアダムが暮らしていた楽園で、神の許しを得ぬまま、性行為に及んだ。
だからこそ、罪を犯した彼女は、それ以降、産みの苦しみを負う存在となったとされる。

もちろん、人はすべてアダムとイブの子孫なのであるから、その身に原罪を負っているのだが、処女・童貞は、そうでない者たちよりも汚れていない存在だとする考え方が一般的である。
キリスト教が世界を席巻する以前、古代ローマでは、処女を殺すことは禁忌とされていたため、処刑する前に強姦し、その身を汚してから処刑するという風習があったらしい。
また逆に、処女を生贄とすることで、神々の怒りや悪魔の力、天災などから免れることができるとした古代の文明もあった。
いずれにしても、性行為を知らない人間には神聖な力が宿っているという考えは、キリスト以前・キリスト以後を通じて、広く一般に流布している信仰なのである。

「――原罪ね」
イブは、自らの犯した罪に恐れおののき、罪を犯していなかったアダムをも自分と同じ罪に陥れた。
それ故、キリスト教では、女子は汚れた存在であり、男子に仕える義務を負う者であると定義されている。
だが、もし人類の始祖が犯した罪が本当に性行為のことであったなら、より重い罪をその身に負っているのは、女ではなく男の方なのではないかと、ヒョウガは思った。
常識的に考えて、女が男に性行為を強いることは困難である。
イブがアダムを誘惑したことが罪だというのなら、イブの誘惑に負けたアダムこそが、イブよりも心弱い存在なのではないだろうか――。
彼が属するモンテ・コルヴィノ一門の長であり、彼の大伯父でもあるフェルディナンド・ダ・モンテ・コルヴィノ枢機卿の、造作だけは整っているが底意の見えない眼差しを視界に映しながら、ヒョウガはそんなことを考えていたのである。

ヒョウガの考えはどうであれ、現在の世の中では、男は女より汚れていない・・・という優越が信じられている。
まして、女を知らぬ童貞なら、その“清らかさ”は処女の比ではない――ということなのだろう。
理屈はわかる。
理屈はわかるのだが。
「そういうわけで、エデッサの捕虜に女を教えてやってほしい」
という、聖職者にあるまじき枢機卿の言葉に、それでもヒョウガは一瞬呆けることになったのである。






【next】