『エデッサの捕虜』というのは、2年前の教皇庁軍の遠征で滅ぼされた小王国エデッサの王の子息で、彼は、彼が教皇庁軍に捕らえられたその日からこれまで、外部の誰との面会も許されず、タルソスの塔に幽閉されている――という話だった。 その事実は、ヒョウガも知っていた。 そういう仕儀になった理由――本当の理由――は知らなかったが。 かつてオリエントに最初に建国されたラテン国家と同じ名を冠しているエデッサは、しかし、オリエントのエデッサ伯国とは直接の関わりはなく、キリスト教国としての意思だけを継いだ国である。 むしろ、その歴史はオリエントのエデッサ伯国より古く、王の一族はキリストが人の世に生を受ける はるか昔に地中海世界を支配していたエトルリア人の末裔と言われていた。 そのエデッサ王国の王一族すべてが殺害され、エデッサの国自体が地上から消え去った今、利用価値があるのか ないのかもわからない子供の処刑を、かの国の消滅によって反抗者を持たなくなった教皇はなぜか許さなかったらしい。 教皇の望みは、エデッサの生き残りを裁判で有罪にすることで教皇庁に神の正義のあることを世に知らしめ、地上の神である教皇に逆らう罪人を公開処刑することなのだろう――というのが、人口に膾炙している最有力説だった。 教皇は、エデッサの捕虜が裁判にかけられるほどの年齢になるのを待って――つまりは堂々と処刑できる年齢に至るのを待って、その命を永らえさせているのだ――というのが。 では いよいよ教皇はその仕事に取りかかり始めたのかと、当然のことながら、ヒョウガは推察した。 もっとも、それはヒョウガにとっては あまり愉快な推察ではなかったし、さほど興味深く思える事件でもなかったが。 なにしろ、この地上からエデッサの国が完全に消滅してから、既に2年の時が流れているのだ。 「そんなことをする必要がどこにある。女も知らずに死んでいく王子様への哀れみか? さっさと殺してやる方が、よほど慈悲深いやり様というものだ。高貴な王子様には、虜囚の憂き目に合っていることの方が屈辱だろう」 モンテ・コルヴィノの町は、モンテ・コルヴィノの一族が作り、支配している町である。 そして、ヒョウガは、過去に教皇を幾人も輩出している その一門の落ちこぼれだった。 教皇はもちろん枢機卿にもなることも まず期待できないだろうが、モンテ・コルヴィノ一門の一員であるからには、いかに不品行な甥とはいえ司祭程度の地位には就いてもらわなければならないと、 彼の大伯父であるモンテ・コルヴィノ枢機卿は考えている節があった。 しかし、肝心のヒョウガは俗界に未練たっぷりで、彼は聖職に就くつもりは全くなかったのである。 それくらいならいっそ傭兵団でも組織して、この世の憂さを晴らしたいと、彼は半ば本気で考えていた。 そういう考えだったので、一門の長に媚びへつらう必要性を感じていないヒョウガは、枢機卿に対する言葉使いもぞんざいの極みだった。 滅多に感情を表に出さない枢機卿は、ヒョウガの無作法を咎めもしなかったが。 「処女童貞は処刑できないという教会法を知らないわけではあるまい?」 知らないわけではないが、ヒョウガはその法を忘れていた。 なるほど そういうことかと得心し、それならばなおさら、エデッサの王子を捕虜になどせず、戦乱のどさくさに紛れて2年前に殺しておけばよかったのにと、ヒョウガは至って合理的に考えた。 実際に教皇に反旗を翻した王ではなく その息子を、やがてこんな面倒の起こることがわかりきっているのに生かしておいた教皇の意図がわからない。 「なら、エデッサの王子は童貞じゃないと偽って、処刑してしまえばいい」 「それも考えた……が」 ヒョウガが思いつく程度の悪事を、魑魅魍魎が もちろんモンテ・コルヴィノ枢機卿は そうすることを考えた――らしい。 そして、その考えを放棄した――らしい。 どうやら、そうできない事情が、エデッサの捕虜にはあるようだった。 「エデッサの捕虜は、つまり――非常に美しいのだ。そこいらの貴族の処女を気取った令嬢などより はるかに汚れなく清らかな様子をしている。私が一介の信徒だったなら、あの者を罪人だと主張して処刑しようとする者は神の意に背く悪魔だと、迷いなく思うだろう。エデッサの王子の清らかさを疑う者はいまい。それでは、まずいのだ」 「……」 呆れた事情である。 海千山千の枢機卿が真顔で語った“事情”があまりに意想外のことだったので、ヒョウガは、虚を衝かれたような気分を味わうことになった。 しかし、確かに呆れた事情だが、それは非常に重要かつ根本的な問題なのかもしれないと思う。 教皇は教皇の正義を、善良な一般信徒に知らしめたいのである。 だが、善良で素朴で無学な一般信徒は、善良かつ素朴に、清らかに見えるものを神に近しいものだと信じるに違いない。 それでは、教皇の目的は達せられないのだ。 「なるほど。それで、高潔なるモンテ・コルヴィノ主席枢機卿猊下は、古代ローマの例にならい、清らかな子供を汚してから処刑することを考えたわけだ。そういう下劣な仕事を成し遂げられるのは、モンテ・コルヴィノ一門の中には、姦淫の罪にまみれている俺以外にはいないということで、その名誉が俺にまわってきたわけか」 「あの子供を、見るからに不品行で、情欲に溺れ、堕落しきった様子の罪人に仕立てあげてほしいのだ」 「清らかな王子様を、俺のようにしろと」 反抗的な態度で、ヒョウガは枢機卿に皮肉を言った。 「そうだ」 枢機卿が、ヒョウガの皮肉を ただの事実としか思っていない顔で、いささかの遠慮もためらいも見せずに、あっさり頷く。 はっきり言われた方が気持ちがいいと、ヒョウガは――ヒョウガもまた――開き直ったのである。 「エデッサの捕虜の歳は」 「16」 「16 !? 」 大伯父の返答を聞いて、ヒョウガは思わず声をあげた。 無論、裁判に引っ張り出すために2年を待った罪人である。 エデッサの捕虜は若年ではあるのだろうと思ってはいた。 しかし、裁判など言葉さえ話せれば、証人としてでも裁かれる側の人間としてでも、出廷させることのできるものである。 それほど“清らか”な捕虜なら、10歳かそこいらの子供なのだろうと、てっきりヒョウガは思っていたのだ。 だが、16なら十分に結婚もできる歳である。 16歳にもなった少年の“清らかさ”など、たかが知れているではないか。 「その歳なら、牢に裸の商売女を2、3人放り込んでやれば、卿の目的は簡単に達せられるだろう」 「そう簡単に事が済むのなら、おまえのような出来損ないをわざわざ呼んだりはせん。おまえは、エデッサの捕虜を見たことがない」 人の世と人の心の裏を知り尽くしているからこそ高潔な聖職者としての表の顔を維持できている枢機卿に、そこまで言わせるエデッサの王子。 大伯父に依頼された罪深い仕事に、まるで乗り気を感じていなかったヒョウガの好奇心が、いたく刺激される。 「その仕事を引き受けるかどうかはともかく、見てみたくはあるな。その聖なる罪人を。会わせてくれ」 最初からそのつもりだった枢機卿は、ヒョウガの言葉に、無言で頷いただけだった。 |