氷河はもちろん、瞬を押し倒す気満々で、瞬の部屋に赴いた。
もっと人並みの手順を踏む方が瞬好みなのではないだろうかと思いはしたのだが、愛の告白もレストランでの食事もデートもキスも飛ばして、さっさと夜を共にしたいというのが瞬の望みなら、一足飛びに一線を超えることに、氷河とて全く異論はない。

ついに二人の気持ちは通じ合った。そして まもなく身体も通じ合う――。
そう思うと、柄にもなく氷河の胸は高鳴った。
氷河は期待と緊張に心と身体を熱くしながら、瞬の部屋に足を踏み入れたのである。

氷河が瞬の部屋のドアを開けた時、瞬は彼のベッドの中にはいなかった。
室内に置かれた小さな応接セットの二人掛けのソファに腰をおろしていた瞬が、彼の部屋を訪ねてきた男に、切なげな視線を投げてくる。
氷河もさすがに、ベッドの上で待ち構えている瞬に手招きをされるなどという展開を考えていたわけではなかったので、その状況自体には、さほど不審の念を抱くことはなかった。

他にも椅子はあったのだが、瞬が掛けているソファの隣りに腰をおろし、今夜のメインイベントをどう切り出すべきかと、考えを巡らせる。
瞬相手に、「じゃあ、始めるか」とは、氷河もさすがに言い出しにくかったのだ。
そんな氷河の肩に、瞬が頬を預けてくる。
もっと大胆なことをするつもりで ここまで来たはずなのに、氷河の心臓はそれだけのことで大きく跳ね上がった。

「氷河……」
「な……なんだ」
いつかは瞬は自分のものになると、明確な根拠はなかったが、氷河は信じていた。
今夜二人がこうして共にいることは、実に自然なことだと思う。
とはいえ、恋焦がれ求め続けていた瞬が相手となると、こうして寄り添っているだけのことが、氷河にはなかなか刺激的な前戯だった。
性行為の前に前戯を行なうのも、性行為をできるだけ長引かせようとするのも、自然界においては、人間だけが為すことらしい。
人間以外の動物は、おそらくこの行為に快感を覚えることはないのだと思うと、氷河は、自分が人間としてこの世界に在ることを、神に感謝しないわけにはいかなかった。

瞬の声は、氷河の身体を刺激する愛撫そのものだった。
その刺激的な声が、氷河の耳のすぐ側で紡ぎ出される。
「もし、氷河に好きな人がいて、氷河はその人が大好きで、でもその人が、氷河の望むような好意を返してくれなかったとしたら――それでも氷河は平気?」
「なに?」

瞬はいったい何を言ってるのかと、氷河は訝ることになったのである。
氷河の“大好きな人”は、たった今、こうして彼を自室に招き入れ、氷河の望む通りの好意を返そうとしてくれている。
瞬の問いかけの意味が、氷河には全く理解できなかった。

不可解な謎を問いかけてくる瞬の髪が、氷河の頬に触れる。
それは、瞬の声同様に、氷河の心身を刺激した。
だから、氷河は、瞬の不可解な言葉も、ただ彼の恋人を愛撫するためだけに発せられたものなのだと思ったのである。
言葉の意味ではなく その響きが、これから肉体的に結ばれようとしている相手の耳と肌を震わせ熱くする瞬の声の響きが、この場では、それこそ意味のあるものなのだ――と。

「平気ではない……と思うが。人間は、愛したら、愛し返されたいものだろう」
「そうだよね」
「だが、それでも、俺は――自分が愛し返されなくても、その人を愛し続けると思う。俺は、なにしろ自己中心的で執念深い男だからな」
笑い話のつもりで、同時に、瞬への愛撫のつもりで、氷河は瞬に告げた。
が、瞬は笑ってはくれず、
「そう……そうだよね」
と、呟きめいた反応を返してきただけだった。

その反応が、到底、声の愛撫に心身を震わせているようなものではなかったので、氷河は慌てて自分の判断を見直すことになったのである。
瞬の声の響きは刺激的だが、瞬の言葉には、やはり意味があるらしい。
ここで馬鹿な対応をして瞬に幻滅されることがあってはならないと、氷河は必死に考えを巡らせた。
そして、氷河は、瞬の言う『愛し返してくれない人』とは『亡くなった人』のことを言っているのだと解釈したのである。
亡くなった人を思い続けている白鳥座の聖闘士のことを、瞬は切なく思っているのだ、と。

そういう結論に辿り着いた氷河はすぐに、『現在瞬の隣りにいる男は、今は、生きている者を愛している』という事実を瞬に知らせなければならないと思った。
白鳥座の聖闘士は、今は誰よりも瞬を大事に思っているのだということを、瞬に知ってもらわなければならない。
だが、氷河は、その事実を瞬に知らせることはできなかったのである。

「寂しいけど、耐えなくちゃね。これだけは、戦って勝ち取るわけにはいかない。誰だって、耐えるしかないことなんだ……」
瞬が、小さな声で、そう呟く。
「瞬……?」
そうして、瞬はそれきり黙ってしまった。

いつベッドに移ろうと言ってくれるのか、それともここはやはり自分の方から切り出すべきだろうかと、氷河は内心 大いに焦り、迷うことになったのである。
氷河の焦慮と逡巡を知ってか知らずか、瞬は一向に動こうとしない。
自分の肩に頬を預けている瞬が、眠っているのか目覚めているのかもわからず、そのいずれなのかを確かめるために瞬に声をかけることもためらわれ、結局 氷河はそのままの体勢で長い時間を過ごすことになってしまったのである。






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