「昨日、瞬が思い詰めた顔で、1億円貸してほしいと言ってきたの。瞬のことだから、どこかに寄付でもするんだろうと思って、あげたのよ」
裁きの庭に証人として招かれた女神アテナが、あっさりと問題の金の出どころを白状する。
「あげたのよ……って、沙織さん……」
傍聴席で彼女のとんでもない証言を聞かされてしまった星矢は、言葉では表現し難い疲労感に支配されることになった。
瞬の行動にも問題はあるが、使途を確認もせず、1億もの大金をぽんと未成年者に“あげる”方もあげる方である。

星矢の呟きは決して沙織の行為を弾劾するものではなかったが、沙織は彼の呟きの言外に、瞬に金を渡した者の非常識を責める響きを感じ取ったらしい。
彼女は即座に星矢の非難の不当を訴えた。
「だってまさか、氷河を買うのに使うなんて思いもしなかったんですもの。氷河は、瞬が望むならいくらでもタダ働きするでしょうし、氷河を一晩買うのに1億なんて、私なら絶対払わないわ」

実に尤もな主張である。
沙織に常識がないという非難が不当だということ、彼女は至って常識的な価値観と判断力を有していることを、星矢は認めないわけにはいかなかった。
となると、ここはやはり、被告人当人に彼の行動の真意を確かめるしかない。
臨時の法廷になっている城戸邸ラウンジに打ち揃っていた、証人である城戸沙織、傍聴人である星矢、紫龍、そして原告である氷河の目は、改めて被告人である瞬に向けられることになったのである。

「だって……」
仲間たちの不審の視線の集中砲火を浴びた瞬が、聞き取りにくい小さな声で、彼のとった行動の訳を語り始める。
「だって、半月くらい前に、氷河が……『お金を持ってる人が好きだ』って紫龍に言ってるのを聞いたんだ。付き合うならお金持ちに限るって。だから、お金を払えば、氷河は僕と付き合ってくれるのかもしれないって思って、氷河に聞いたら、付き合ってくれるって言って、だから、僕は――」

「なに?」
瞬の証言は、氷河にとっては寝耳に水のことだった。
金を持っている者が好きだなどと、そんなことを言った記憶が、氷河には全くなかった。

「僕たちの周囲でお金を持ってる人っていったら、沙織さんでしょう。だから、氷河は沙織さんのことが好きなんだと思った……。でも、だから、僕はせめて一晩だけでも氷河と一緒にいたいって思っただけなんだ」

「いつ俺がそんなことを――」
氷河は大混乱に陥っていた。
氷河は本当にそんなことを言った覚えはなかったし、そもそも、自分が沙織を好きだという見解は、氷河自身も初めて聞く話だったのだ。
氷河が好きなのは、いつも瞬だけで、それは誰もが知っているはずのことだった。
瞬だけは――知っていてくれなかったようだったが。

実際、瞬は、その事実を知らずにいたのである。
氷河が沙織に好意を抱いているという、瞬にしてみれば論理的な推察のせいで、瞬はずっと つらい日々を耐え続けていたのだ。
「沙織さんは、お金持ちで、強くて、優しくて、気品があって、それに女性で……氷河が沙織さんを好きになっても、それは当然のことだと思う。僕だって沙織さんのことは好きだし、尊敬もしてる。僕なんか、太刀打ちできない。でも――」

瞬は、女神が聖闘士たちの恋の対象になり得るとは思っていなかったのだ。
瞬自身、沙織のことは敬愛していたが、それは、その身に地上の平和を担う重責を負い、その重責に耐えている女神への尊敬であり、また、彼女のどこかに母性を感じているためでもあった。
そのせいもあって、氷河の気持ちを知った時には、瞬は、世界が根底から覆されたような衝撃を受けたのである。
まさかと思いつつ、そんなはずはないと自分に言いきかせつつ、それでも――『氷河の好きなタイプ』に該当する人物を、瞬は沙織以外に思いつかなかった。

瞬は、“好きな人”を金の保有額の多寡で決定するという氷河を軽蔑したかった。
しかし、それまでの氷河は、自分の財産といえるものを我が身ひとつしか持っていない瞬に、いつも優しかった――。
「氷河がそんな心境に至ったのには、何か僕にはわからない深い理由があるんだろうと思ったんだ。氷河が沙織さんを好きなのなら、僕は僕の気持ちを諦めるしかないとも思った。ただ、僕は、氷河の真意を最後にもう一度だけ確かめてみたいと思ったんだ。氷河には そんなにお金が大事なのか、お金を持ってる人なら誰でもいいのか、お金を出せば僕でも氷河を か……買うことができるのか」

そうして、実際に、氷河は瞬に金で買われた。
その上、女神への恋など実るはずもないというのに、愛し返されなくても愛し続けると、彼は瞬に断言してみせた。
本人に直接そこまで きっぱり断言されてしまった瞬は、自分の恋を諦めるしかなくなってしまったのである。

「俺は――」
瞬に1億の金を払われたことに腹を立てていた氷河が、そういえば、「1億出せば、瞬に一晩付き合う」と言ったのは自分自身だったことを思い出す。
そして、氷河は大いに慌てることになった。
その点に関してだけ言えば、瞬は、二者の間で成立した売買契約に従って代金を支払ったにすぎない。
瞬は、買いたい者と売りたい者の間で交わされた約束を履行しただけなのだ。

だが、氷河が今 最も知りたいことは、瞬がなぜそんな馬鹿げた契約の締結を思いついたのかということだった。
瞬がなぜ、白鳥座の聖闘士が好意を向けている相手を誤解できたのかということだった。
「だから、俺がいつ、金持ちが好きだなんて、そんな下品なことを言ったというんだっ!」
男同士で聖闘士同士だということ以外に大した障害はないと思っていた自分の恋が、なぜこんな破茶滅茶な様相を呈することになったのか、氷河にはどうしても合点がいかなかった。






【next】