氷河と瞬の噛み合わないやりとりを聞いているうちに、紫龍は 自分が一傍聴人の立場に甘んじていられないことに気付いた。 紫龍は、氷河が『金持ちが好きだ』と告げた場面に、自分が居合わせていたことを思い出したのである。 確かに、氷河はそう言ったことがあった。 半月ほど前、現金を持たない我が身の不運と不幸に激しく憤って。 「氷河、おまえは確かに、金持ちが好きだと言ったぞ。金を持っていない人間ほど腹立たしいものはないとも言った」 「なに?」 味方ではないにしても敵ではないと思っていた一傍聴人の、裁判の行方を覆すような証言に、氷河が眉をひそめる。 もちろん氷河は、紫龍の証言を偽証だと思った。 原告であるはずの男の立場を悪くするために、紫龍は虚偽の発言を行なっているのだと、氷河は思った。 が、事実はそうではなかったのである。 紫龍は真実を告げていたのだった。 氷河にピーマンを食べさせたがる例の栄養士の指示で、城戸邸の厨房の冷蔵庫には炭酸飲料の類が置かれていない。 それが、この事件の発端だった。 瞬と紫龍が、氷河の問題発言を聞いたという半月前、ふいに突然唐突に、どうしてもコーラが飲みたいという発作に見舞われた氷河は、近所の公園に置かれている自販機にコーラを買いに出掛けた。 わざわざ外に出たことが無駄にならないように、電子マネーEdyとSuica のカードを持ち、万一公園の自販機が そのどちらにも対応していないものだった時のことを考えて、彼は おサイフケータイまで持参した。 ところが、 ちなみに、氷河が持参したカードは銀行口座からオンラインチャージできるタイプのもので、沙織が各青銅聖闘士たちのために開設している銀行口座には常に、大企業の中間管理職の年収相当の残金があった。 つまり、氷河名義の口座には、120円の缶コーラを千本買ってもまだ10万本は買えるほどの残金があったのである。 だというのに、自販機がカード対応のものでなかったばかりに、氷河は目的のものを手に入れることができなかったのだ。 ここで、たとえば確実にカードで買い物ができるコンビニにでも足を伸ばしていれば、彼は彼の欲しいものをその手にすることができていただろう。 しかし、『あの公園にある自販機で缶コーラを買う』という決意に満ち満ちて城戸邸を出た氷河は、自分の立てた計画目標を柔軟に軌道修正することができなかった。 心に決めていた目標を達成できないと知った彼は、怒りに燃えて城戸邸に戻り、ちょうどエントランスホールで出くわした紫龍に、 「金のない奴はクズだ! 金を持たない人間ほど間抜けで腹立たしいものはない!」 と、自虐的に吠え、噛みついたのである。 そして、 「金を持っている奴と一緒だったら、俺はこんな屈辱を味わうことはなかったんだ。付き合うなら、金持ちに限る。俺は金を持っている人間が好きだ!」 と、支離滅裂なことを主張し出したのだった。 「……」 紫龍の重要な証言は、氷河に半月前の怒りの記憶を思い出させ、同時に瞬から声と言葉を奪った。 「要するに、氷河は120円を持っていなかったんだ」 「え?」 何とか声は出るようになったが、それでも瞬の思考が混乱から逃れられたわけではない。 要するに半月前 氷河は、120円の現金が手許になかったばかりにコーラを飲むことができず、目的を達することができなかったことへの怒りが、彼に、「俺は金持ちが好きだ」という言葉を言わせた――ということは わかった。 だが、瞬は今、むしろ、その事実がわかったからこそ混乱していたのである。 この半月間の苦悩が無意味だった――だけなら、それは大した問題ではない。 だが瞬は、この半月の間、氷河という人間を誤解し見誤っていた――悪い方に見誤っていたのである。 氷河を拝金主義の男と誤解することで、瞬は彼を侮辱していたことになるのだ。 「氷河の好きな金持ちって、120円を現金で持ってる奴のことなのかよ?」 星矢が、その金額の些少さに、情けない顔になる。 紫龍は星矢の言を否定はしなかったが、氷河のみみっちさを嘆く態度を示すこともしなかった。 『俺は金を持っている人間が好きだ!』という氷河の叫びの裏にあったものに、彼は今になって気付いたのだった。 「今にして思えば、あの時 氷河は『瞬が好きだ』とわめいていたんだな。瞬はカード支払いだと店のレジにある募金箱への寄付ができなくなるという理由で、このご時世に未だに現金持ち歩き派だろう」 「あ……」 自分が二重にも三重にも氷河を誤解し、二重にも三重にも氷河を侮辱して、馬鹿げた空まわりを演じていたことに気付き、瞬は尋常でなく青ざめることになってしまったのである。 「おまえは俺をそんな男だと思っていたのか」 氷河が自分を頭ごなしに怒鳴りつけてくれたなら どんなにいいだろう――と、瞬は思った。 だが、氷河は、自分に対する瞬の誤解と侮辱を知らされても、その声を荒げることをしなかった。 彼はただ、力も感情も感じられない眼差しを瞬に向けてきただけだった。 |