「一緒に逃げよう。お前の兄もそれを望んでいる」
ヒョウガが神殿の中に入ることができたのは、神を完全には信じきっていない神官たちの計らいによるものだったのだろう。
シュンが軟禁されている部屋に案内されてきたヒョウガは、そこにシュンの姿を認めると、開口一番にそう言った。

神殿の神官たちとは異なり、彼は神を信じている。
それが、シュンにはわかっていた。
ただ彼は、神の定めた運命を受け入れ難く思っているだけなのだ。
大抵の人間が、『神の定めたこと』と諦めるところで、彼は諦めない。
神を信じているにも関わらず、信じている神を彼は恐れない。
そんなヒョウガを、シュンは好ましいと思う。
だが、ヒョウガのような心を持ち得ない人々のことを考えると、シュンは彼の言葉に逡巡なく従うことができなかった。

「僕がいなくなったら、他の誰かが僕の代わりにされる」
シュンが危惧しているのは、その一事だった。
一人の生け贄の逃亡は、本来ならば生き続けることのできた別の人間の命を奪う。
シュンは、それだけは避けたかったのだ。

「選び直しているうちに、泉に水が戻るかもしれん。おまえが選ばれたことが間違いだったことがわかるかもしれない」
しかし、ヒョウガは、彼が失いたくないものを守ろうとする気持ちに正直すぎるほど正直な男だった。

「人間は――神を称え神を養うために、神によって作られたものだよ。逆らうことは――」
「俺の母は逆らった。彼女は、そのせいで自分の命を削ることになったかもしれないが、俺を神の手から奪い返したことを後悔はしていないと言って死んでいった」
「ヒョウガ……」
「おまえは特別な生け贄だ。代わりのものがすぐに見付かるとは思えない。夏至の日までに、おまえに代わる生け贄が見付からなければ、次に神に生け贄を捧げるのは秋分の日だ。その間に事態は変わる」

そう断言するヒョウガは、自分の言葉に根拠など必要としないのだ。
それはわかっていたのだが、シュンはヒョウガに尋ねた。
「でも、どこへ行くの」
シュンがヒョウガにそう尋ねたのは、根拠がないにしてもヒョウガの言うことには一理があり、最悪の場合は秋分の日までに自分がチチェン・イツァに出頭すれば、他の誰かを身代わりの生け贄にせずに済むだろうという考えのためだった。
ヒョウガが、ほっとしたような顔になる。

「俺の母はプトゥン族の出なんだ。北へ行こう。ポポカテペトルの山の中にでも。あそこは人の近寄らない聖地だ。しばらく身を潜めて、時間を稼ぐ」
ヒョウガの提案を断固として退ければ、ヒョウガは何をするかわからない。
神を信じていながら神を恐れないヒョウガに頑なに逆らっても、彼は彼の恋人の命を失わないために、力づくでこの場から神への生け贄をさらっていくだけだと、シュンにはわかっていた。

そして、シュンは、そんなふうに自分の意思に従い 自分の力を信じて生きているヒョウガが好きで、自分の命がいつかは失われるものなら、少しでも長い時間 彼の生気に触れていたかったのである。






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