シュンが生まれ育ったティカル、全マヤ族の聖地と言われるチチェン・イツァ、そしてヒョウガの住むカラクムル。
シュンは、この3つの大都市以外のマヤの地を知らなかった。
マヤの言葉を話し、マヤの文字を使う大小の都市国家は およそ70。
それらはすべて白い道サクベと呼ばれる堤道で結ばれており、各都市間の交易も盛んだったのだが、なにしろシュンの最も重要な仕事は、ある地点から見える星の運行を観測し、星の語ることを読み取る作業だったので、あまり長く頻繁に天文台を離れることは許されていなかったのである。

大都市しか知らないシュンには、北に向かう道すがらに立ち寄る小国家の様子は 非常に興味深いものだった。
同じ言葉、同じ文字、同じ神――を生活の基盤としているにも関わらず、それらの町々はどれも個性的で、規模の違いや貧富盛衰の差はあるにしても、そこに住む人々は誰もが皆必死に生きていた。
もし追っ手に捕まり、我が身を神への生け贄として捧げることになったとしても、それがこの人々のためならばと思える健気と力強さを、マヤの民は持っていたのである。
ヒョウガには、口が裂けてもそんな決意を告げることはできなかったが。

ヒョウガとシュンが向かったポポカテペトル山は、万年雪を戴く活火山で、その名は『煙をあげる山』という意味を持つ。
多くの巡礼者が訪れる聖なる泉とは逆に、神の怒りを恐れて人々が近寄ることのない聖地だった。
1年で最も気温の高い季節だというのに、山頂には白い冠雪がある。
シュンはその山を、マヤの各都市に点在する泉の水源だと察していた。

その山の麓に、小さな村があった。
食料を手に入れるために立ち寄ったその村で、シュンは奇異な光景を見ることになったのである。
その村では、樹木を切り開いた土地に木材で柵を作り、その柵の中にリャマの群れを閉じ込めていた。
ティカルやカラクムルには牛や馬の役畜がいない。
大都市には動物を集めて飼うという発想がなかった。
囲いの中でのんびりと草を食べている何10頭ものリャマの姿は、シュンには新鮮な驚きだったのである。

その様子を眺めていると、7、8歳とおぼしき小さな子供がシュンたちの側に寄ってきて、彼にすれば珍しくもない光景を飽かず眺めている見知らぬ二人連れを、怪訝そうに見上げてきた。
シュンはあわててフードで顔を隠そうとしたのだが、ふと思いとどまって、そうすることをやめた。
顔を隠そうとする人間に、子供が警戒心を抱かないはずがない。
そして、シュンは彼と話がしたかったのである。
いかにも腕白そうなその子供に、シュンは尋ねた。
「このリャマたちは、人間が飼っているの?」
「そうだよ。俺たちがエサを与えて、敵から身を守ってやってるんだ。代わりに物を運ばせたり、食料にしたりする。最初は、俺が生まれる前に山で掴まえて連れてきたらしいけど、今ここにいるのは、ここで生まれて、山の暮らしを知らないリャマばっかりだよ」

「人間を養うために……飼われてるんだ」
シュンが虚空に向かって独り言のように呟く。
人間が 神を養うために神によって作られ生かされているように、このリャマたちは人間を養うために人間に飼われているのだ。
柵の中に閉じ込められているリャマの姿に、シュンは自分自身を重ね合わせずにはいられなかった。

「うん。でもさあ、時々、柵の外に逃げ出す奴がいて、エサのある場所も自分の身の守り方も知らないくせに、結構山の中でたくましく生きてる奴もいるんだよな。生きていけずに死んじゃった奴もいるんだろうけど、俺、リャマたちは本当はそんなふうに生きたがっているんじゃないかと思うんだ」
「そう……」
今のシュンたちはまさに、神の作った世界を囲む柵の外に逃げ出したリャマである。
神の手を振り払い生まれ育った世界の外に出て、人は生きていくことができるのか、あるいはそれは人には不可能なことなのか――シュンにはわからなかった。

「俺たちは生き延びるぞ」
瞳に不安げな色を浮かべたシュンの手を握りしめ、ヒョウガが低く囁く。
シュンは彼に頷いた。
そうすることが許されるのなら――許されなくても可能なのなら――シュンは神の束縛から逃れて生きてみたかった。

大人しく神の作った柵の中にいる限り、人の命は神の手に握られているのだ。
神にその命を所望されれば、それまで与えられた安穏の代償として、人は否応なく自らの命を神に差し出さなければならない。
だが、神の加護を拒めば、少なくとも人は自分の意思と力で、自分の生と死を決定することができる。
どちらが自分にとって良い・・ことなのか、その決定を為すことができるのは自分だけなのだ。

人が一人だけで生きる存在でなかったら、シュンは迷わず己れの意思と力だけで生きる道を選んでいただろう。
シュンは、今はまだ 迷っていた。
人は、自分一人の力では、自らの命を維持するだけの水を確保することさえできないのだ。

「水……そうだ。ここは水には困ってないの? マヤの他の国では、どこも泉が枯れて困ってるんだけど」
シュンがこれまで通り過ぎてきたマヤの国々はいずれも、自らの生活圏から徐々に水が消えていくことに誰もが不安を覚え、神経を尖らせていた。
しかし、この子供の表情にはそんな緊張感はまるでなく、至ってのんびりしたものである。
怪訝に思って尋ねたシュンに、その子供は実に興味深い事実を教えてくれた。

「水? あ、よそでもそうなんだ。うちの村でもさ、半月ほど前に山が揺れて、その時から村の泉が枯れちゃったんだ。みんな慌てたんだけど、すぐに 少し離れたところに新しい泉が湧いてるのが見付かってさ。そん時には、みんな安心して浮かれてお祭りした」
「山が揺れた?」
問い返したシュンに大きく頷き、子供が彼の背後にある山――マヤの聖地ポポカテペトル山を振り返り、振り仰ぐ。

「山が煙を吐き出した時には、神様が何かに腹を立ててるんじゃないかって、大人たちは大騒ぎしてた。あの……これはかーちゃんには言わないでくれよ。俺、揺れが治まってから、山に入ってみたんだ。山の左側の真ん中あたりに、黒い影みたいなとこがあるだろ。あそこに大きな裂け目ができてた。でさ、その裂け目の底をすごい音を立てて水が流れててさ、どこに流れてくんだろうって思って、裂け目に沿って歩いていったんだけど、土の色が黒から茶色に変わったところで、水は消えちまってた」

「――山が揺れた。川が現われ、そして泉の位置が変わった――」
子供の指し示す指の先を辿り、聖なる山に視線を走らせながら、シュンはその事実の意味するところを考えた。
「ヒョウガ、もしかしたら……」
ある可能性に思い至り、シュンが期待に満ちた眼差しをヒョウガに向ける。

その時、だった。
リャマのために作られた小世界を挟んで山の反対側――つまり、村人たちの住居がある方向に――空に向かって立ちのぼる黒煙が見えたのは。
「火事?」
シュンの呟きに弾かれるように、子供が取り付いていた柵から手を離し、飛び降りる。
「かーちゃん!」
そちらの方に彼の家があるのだろう。
脱兎のごとく駆け出した子供のあとを、シュンとヒョウガもまたすぐに追うことになったのである――嫌な予感に急きたてられて。






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