ティカルでは、シュンの顔馴染みの神官たちがつらそうな目をして、神への生け贄を出迎えてくれた。
彼等は、本心ではシュンに逃げおおせてほしいと願っていたが、表向きは生け贄の帰還を喜ばねばならない。
彼等が複雑極まりない表情をシュンに向けるのは、至極当然のことだったろう。

言うべき言葉を見付けられずいるらしい神官たちに、シュンは、そんなものは不要だと告げる間も惜しむように、ティカル周辺の地図を所望した。
もちろんシュンの望みはすぐに叶えられ、シュンはそれから丸一日、ティカルの神殿に用意された生け贄のための部屋に閉じこもり、皆の前に姿を現わさなかった。

神への生け贄が捧げられる夏至の日まで、あと数日。
シュンの兄の命令に従う兵だけで構成されていた軍の中に囚われていた時とは事情が変わり、ヒョウガはティカルの中央神殿の牢に幽閉されることになった。
シュンの兄の部下たちは、シュンの命を神に返してしまうべきではないという考えをティカルの都中に触れまわっていたが、それが有力な世論になるには時間が足りない。

そんな切迫した状況下で、翌日やっと控えの部屋から姿を現わしたシュンは、神殿の神官たちを一堂に集め、彼の至った結論を彼等に示した。
「各都市の泉の水は枯れたのではなく、その位置を移動しただけなんです。マヤの各都市に散らばる地下水脈の水源であるポポカテペトル山で噴火があって、ほんの少し地下水の流れる位置に変化が生じた――のだと、僕は思います。ポポカテペトル山の麓の村では、それは大したずれではなかったけど、山から離れたティカルやチチェン・イツァの泉の位置のずれは、その数百倍・数千倍になる。地理と地質を考慮すると、現在 水脈は――」

石の卓に広げられた地図の上には、無数の線が引かれていた。
それらが、シュンの一日がかりの計算と熟考の仮定を物語るものだということは、神官たちにはすぐにわかった。
その中の1本の線を、シュンが指し示す。

「この線上にある地点のどこかを、工夫たちに命じて掘らせてほしいんです。このあたりでは、漆喰を作るために石灰岩を掘り出した採掘場が幾つもあったはず。この線上に最も近い場所にある採掘跡を更に下方に掘り進めてください。既に相当掘られているでしょうから、少し掘るだけで、水脈には容易に達することができるはず。マヤの人々はすぐに新たなる泉を手に入れることができるでしょう」

確信に満ちて、シュンは断言する。
疑うつもりはなかったし、疑いたくなどなかったのだが、シュンの言葉を聞いた神殿の神官たちは、一様に にわかには信じ難い――という表情を作った。
水は神によってのみ与えられるもの。
それがマヤの人々の根底にある“常識”だったのだ。

「シュン殿、まさか時間稼ぎの出まかせでは――」
「僕を神に捧げる儀式は夏至の夜に行なわれるんでしょう? まだ3日ある。それまで掘って駄目だったなら、僕は大人しくこの命を神に捧げます」
シュンは重ねて断言し――シュンの希望は、シュンの熱意に感じるところのあった神官たちによって、即座にティカルの王に伝えられた。
神官たちの請願に動かされたティカル王は、すぐにシュンの指示を王の命令に変え、シュンの望みは間を置かず実行に移された。

そして――シュンの言葉は、僅か1日の作業で現実のものとなったのである。
水が――マヤの者たちにとっては命の水が――石灰岩採掘のために既に大きな窪地になっていた場所に満ちあふれ、それはあっという間に大きな池になってしまったのだった。

シュンは、驚嘆し歓喜するティカル王を通じて、泉が枯れた各都市の地図の提出を求め、次々に新しい泉の場所を提示していった。
もちろん、夏至の日が過ぎても、この貴重な神の代理人の命を神に返そうと言い出す者はなく、シュンの許にやってくるのは、70を超えるマヤの都市の地図を抱えた、各国の王の使いの者たちばかりだったのである。

シュンの命を守りぬいた神の従者として、ヒョウガは間もなく牢から解放された。
彼は、ティカルの王、チチェン・イツァの王たちに謝罪とねぎらいの言葉と栄誉を与えられたのだが、事情が全く飲み込めずにいたヒョウガは、一夜にして激変した自らの境遇に、ただ呆けるばかりだった。
もちろん、ヒョウガの身柄は即日、彼の恋人の腕の中に返還されたのである。

「シュン殿がヒョウガ殿と駆け落ちすることを見越して、神は、本来なら生け贄に選ばれるはずのないシュン殿を所望したのでは。すべては、神がマヤの者たちに新たな泉の場所を知らせるためのことだったに違いありません。ポポカテペトル山の鳴動から新たな泉の位置を探り当てることは、余人にはできないことだったでしょうから」

弟の無事が確定したことでヒョウガへの憎しみを感じる余裕が出てきたらしいシュンの兄に、彼の周囲の者たちは――王も、神官たちも、彼の部下たちも――口を揃えて 諦めを促した。
「神が認めた仲ということだ。何事も諦めが肝要でしょう」
それで、最愛の弟を異国の男に盗み取られたも同然の兄の気持ちが収まったのかどうかは、神も知らないことである。






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