その夜、瞬は自分が語った夢物語を忘れた振りをし、氷河はこだわっていない振りをして、互いに互いを抱きしめ合った。 忘我の瞬間には、確かに二人は先程の話を忘れていたし、二人の交接はいつも通りに満足のいくもので、瞬は事後には昨夜と同じように満ち足りた気分を味わっていたのである。 修正できない過去にこだわってしまったことを少し後悔してもいた瞬は、氷河が不愉快なことは即座に忘れることのできるタイプの人間であることに感謝し、また油断してもいた。 それがどれほど不愉快なことでも、氷河は、二人に関することは忘れたりしない――という事実を、瞬こそが失念していたのだ。 「おまえは聖闘士になりたくなかったのか」 氷河に問われ、平常の鼓動に戻りかけていた瞬の心臓は、一瞬大きく跳ね上がった。 その質問の裏にあるものは、『俺と会いたくなかったのか』――である。 迂闊な返事をしてはならないと、瞬は自分自身に注意を促した。 それとこれとは、瞬の中では全く別の問題だった。 氷河の誤解を招き、氷河の機嫌を損ねるような答えを口にすることは、決して してはならない。 自分自身を落ち着かせるためと、氷河の怒りを和らげるため、瞬は身体を横向きにして、その身を氷河に寄り添わせた。 「今の自分が嫌なわけじゃないよ。こんなふうに氷河と一緒にいられなくなることを考えただけで、僕は――」 言葉を途切らせ、瞬は適切な言葉を探した。 考えたくもないそんな可能性を、いったいどんな言葉を用いて表せばいいのか。 『悲しい』『寂しい』『空しい』――いろいろな言葉を吟味してから、瞬は最終的に、 「不幸になる」 という言葉を選び、氷河に告げた。 飾るつもりもなく、偽る意図もなく、それは瞬にとっては紛れもない事実だった。 氷河とこうして二人でいることのできない“瞬”は不幸な人間だと、瞬は確信していた。 だが、それとこれとは本当に話が別なのだ。 「氷河とこうしていられないのは嫌だよ。ただ、聖闘士にならずに済んだら、僕は人を傷付けることのない人間でいられたのかもしれないって……ちょっと思うだけ。本気で今の自分以外の自分になりたいわけじゃない。不可能なことだから――それは不可能なことだってわかってるから、つい夢見ちゃうんだよ」 「そんな夢は――」 『見るな』と言われることを察して、瞬は急いで言葉の先を継いだ。 「でも面白いと思わない? 僕は普通の家の子供で、両親がいて、普通に学校に通ってるの。門限にうるさい兄さんがいて、クラスメイトに星矢がいて、上級生には、頼りになる紫龍先輩と、憧れの氷河先輩がいるんだ」 そうなのである。 戦いのない平和な世界に二人がいること――が、瞬の願いだった。 氷河が異議を挟んでこないことに力を得て、瞬が瞬の夢物語の続きを語る。 「ドジで取りえもなくて目立たない生徒の僕は、いつも物陰から憧れの氷河先輩を盗み見ては溜め息をついてるんだけど、ある日、憧れの氷河先輩がそんな僕のところに来て、僕のことを好きだって言ってくれるの」 「……30年前の少女マンガってのが、そんなふうだったんじゃないか?」 「よく、そんなこと知ってるね」 「古典だからな」 それは、知っている理由になってない。 が、瞬はわざわざ そんな事実を指摘するようなことはしなかった。 氷河の機嫌を損ねることを恐れていたせいもあるが、そんな瑣末なことで話の腰を折り、自分の夢物語を語り続けることを、瞬はやめたくなかったのである。 それが実現不可能な、古い少女マンガの中でしかありえないような夢物語だからこそ、瞬は自分の夢を語りたかったのだ。 「素敵でしょ。そういうの。そうしたら、僕は今より幸せだったかもしれない……」 瞬が気を遣うまでもなく、氷河は最初から不機嫌だったらしい。 瞬の呟きに、氷河は沈黙で答えを返してきた。 寝返りを打って、珍しく瞬に背中を向ける。 「もう少しマトモな夢を見ろ」 氷河にそこまで言われてやっと、自分が調子に乗りすぎていたことに気付き、瞬は気落ちした。 「ごめんなさい……」 小さな声で謝って、瞬は氷河の背中に額を押しつけた。 |