新しい朝を迎えても、氷河の不機嫌は持続していた。 自分が蒔いた種である。 自分が刈り取らなければならないということはわかっていたのだが、いったいどうすれば氷河が機嫌を直してくれるのかがわからない。 瞬は、本当に、見果てぬ夢を見果てぬ夢として語っただけのつもりだったのだ。 氷河は笑って受け流してくれるものとばかり思っていた。 為す術もなく ぼんやりとラウンジの窓から城戸邸の庭を眺めていた瞬の視界に、金色の髪が映る。 氷河の機嫌を直すための言葉は見付からなかったが、それでも彼の側に行きたくて、瞬は何かに弾かれるように部屋を飛び出した。 説得力のある弁明が思いつかないなら、ひたすら謝り続けてもいい。 自分が、“今”と“今の二人の関係”を失いたくないと思っていることだけは、氷河にわかってもらいたかった。 (氷河……) 氷河はもしかしたら機嫌が悪いのではなく、思いがけない夢物語を聞かされたせいで途方に暮れているのかもしれない――と、瞬は思ったのである。 城戸邸の裏庭の楡の木の横に立っている氷河の姿は、どこか所在なげだった。 「氷河……あの、夕べは――」 その背中に声を掛けると、氷河がゆっくりと後ろを振り返る。 そうして彼は、瞬の名を口にした。 「……しゅん?」 いつもの呼び方と、どこか微妙にイントネーションが違う。 まるで今日初めて会った他人の名を最初に口にした人のように、瞬の名を呼ぶ氷河の声音はぎこちなかった。 「氷河、どうかしたの」 不安に似た胸騒ぎを覚えながら、瞬が彼の顔を覗き込む。 そうして瞬は、そこに、奇妙なものを見ることになった。 いつも晴れた夏の空のように青かった氷河の瞳の色が、黒い。 氷河の顔、氷河の金髪。背の高さも、その声も表情も年齢も氷河そのものなのに、瞳の色だけが瞬の見知っている氷河のそれではないのだ。 それだけで、印象が随分と違う。 「氷河……?」 しかし、この美貌の持ち主が他にいるはずもない。 瞬は確かめるように、その稀有な貌の持ち主の名を口の端にのぼらせた。 その時。 「星矢、瞬を知らないか」 という氷河の声が 『遠く』といっても、さほど遠いところからではない。 瞬が立っている場所から10メートルほど離れた城戸邸の屋内。 庭に面した廊下の窓がどこか開いているらしく、そのあり得ない声は、そこから庭に漏れ流れてきたもののようだった。 瞬の驚きは、尋常のものではなかった。 10メートル では、今、自分の目の前にいる、黒い瞳をした氷河は誰なのか。 瞬は混乱し始めていた。 氷河は確かに邸内にいるらしい。 星矢がその声の相手をしている。 「庭の方に出てるんじゃないか? ――おまえら、喧嘩でもしたの」 「いや」 “氷河”は星矢の憶測を否定したが、星矢は氷河の返答を 「さっさと仲直りしろよ。おまえら、今日、沙織さんの代理で、午後から二人でガラス工芸展だか何だかを見に行く予定になってんだろ。喧嘩したままだと、瞬は、花瓶なんか見ないでおまえの顔色ばっかり窺ってることになるんだから」 「ああ」 星矢の忠告を、氷河は形ばかりでも だとすれば、“氷河”は間もなくここにやってくる――かもしれない。 だが、氷河は既に瞬の目の前にいる。 ここにもう一人の氷河が現われたらどういうことになるのか。 二人が顔を合わせる事態は避けるべきだ――。 咄嗟に瞬がそう思ったのは、『自分のドッペルゲンガーに会った人間は数日を置かずして死んでしまう』という超常現象の定説を思い出したからだったかもしれない。 瞬は、今 自分の前にいる“氷河”を、本物の“氷河”から遠ざけなければならない――と思った。 そんな瞬の考えを先取りしたように、黒い瞳の氷河が、 「どこか人の来ないところに」 と言って、瞬の手を取り、握りしめる。 その手の感触は、瞬の知っている氷河のそれと全く同じで、瞬は軽い目眩いを覚えたのである。 |