城戸邸の広い庭の最も奥まったところまでくると、黒い瞳の氷河は、彼が握りしめていた瞬の手を放した。
その手を、今度は自分の手で握りしめながら、瞬は勇気を奮い起こして彼に尋ねたのである。
「氷河……だよね?」
怖くて、氷河の顔をまともに見ることはできなかった。

俯き、この現実に怯えてさえいる瞬に、
「そんなに似ているのか?」
という答えが返ってくる。
彼は、自分が“氷河”だということを否定はしなかった。
が、それは明確な否定だった。

「氷河じゃないなら、だ……誰なの」
瞬の声が震えていることに気付いたのだろう。
彼は――黒い瞳の氷河は――瞬に対して用いる言葉を、あまり使い慣れていないことが容易に察せられる丁寧語に変化させた。

「俺は未来から来た、あなたの知っている氷河の血縁――孫です。隔世遺伝なのか何なのか、目の色以外は若い頃のじいさんに瓜二つだって言われ続けてきたんですが、そんなに似てるんだ……」
彼の丁寧語の後半は、ほぼ独り言だった。
『自分は氷河の孫である』という彼の申告を信じるなら、彼の言う『じいさん』とは氷河のこと――ということになるのだろう。
もちろん、その判断には、『彼の言葉が虚言でないのなら』という前提が必要になるが。

「……氷河の孫?」
何に驚けばいいのか――が、瞬にはわからなかったのである。
彼が未来から来たということになのか、それとも氷河に孫がいることになのか、氷河が『じいさん』と呼ばれる時が来るということになのか――が。
氷河に孫がいるということは、氷河に子供がいるということである。
無論、それが瞬との間にできた子供であるはずがない。
その事実――推察ではあったが、それは確かな事実でもあった――に思い至ると、瞬はふいに泣きたい気持ちになった。

瞬が不安や困惑ではない感情のために顔を更に伏せた訳を、彼は知っているようだった。
その声音が、ひどく優しいものに変わる。
「あなたに会いたくて来たんです」
「僕?」
問い返した瞬に、その優しい響きの声で、彼は信じ難い“未来”を瞬に告げた。
「あなたは今日、外出した先で事故に合って死ぬ。じいさんを残して」
「僕が死ぬ? 今日?」

自分は未来からやってきた氷河の孫である――という彼の言葉は、それだけでも常識では受け入れにくい主張だった。
そこに重ねて、瞬の死の予告、である。
瞬に『驚くな』というのは無理な話だったろう。
実際瞬は――平生の瞬なら――そんな非常識な事柄を信じたりはしなかったはずだった。
だが、彼の語る未来が瞬にとって幸福な未来ではなかったせいで、逆に瞬は彼の言葉を信じる気になってしまったのである。
血縁でもなかったら、この美貌がそこここに転がっているはずがないという思いも、瞬の中にはあったかもしれない。

だとしたら――もし本当に彼が未来から来た氷河の孫で、自分が今日死ぬのなら――そう考えて、瞬はひどく心を安んじることになったのである。
瞬は心から安堵した。
「じゃあ、僕は氷河に捨てられてしまうわけじゃないんだね」
死の宣告を受けたというのに、そんなことを考えてしまう自分が 卑小な人間に感じられてならない。
しかし、それは、今の瞬の偽りのない気持ちだった。
氷河に見捨てられてしまうくらいなら、事故や戦いで死んでしまう方がよほど つらくない――というのが。

黒い瞳の氷河が、ゆっくりと瞬に頷く。
「俺は、今から50数年後の、じいさんが死んだ直後の未来から来た――来ました」
そして、氷河もいつかは死ぬ――のだ。
それが遠い未来のことだと知らされて、そのことにも瞬は安堵した。
黒い瞳の青年が、そんな瞬を切なげに見詰める。

「じいさんは、自分の死期を悟った頃から、『しゅん』の話ばかりするようになった。もし、あの時、瞬が死んでいなかったら、自分はどんなふうに生きていたんだろうと、そればかりを。瞬が死んでから、じいさんの世界は色褪せて、じいさんは生きる意味を失った。そんな世界で何十年もよく生きてきたものだと、じいさんは何度も俺に言った」
「あ……」
「瞬は幸せだったんだろうか、瞬を幸せにしてやりたかったって、そればかり」
「あ……あの……」

氷河が、自分の死後も自分のことを気にかけ続けてくれていた――という事実を、瞬は嬉しいと感じることはできなかった。
それでは、氷河は不幸だったのだろうか?
戦いならまだしも事故で命を落とすような馬鹿な恋人を持ってしまったせいで、彼は不幸になってしまったのだろうか。
そして、彼は、彼の作った家庭や家族を慈しむことはなかったのか――。

ないがしろにされているも同然の氷河の近親に、瞬は自分の不安と疑念をぶつけることはできなかった。
少なくとも黒い瞳の氷河は、彼を不幸にした瞬を恨んでいる様子はなかった。
それどころか、彼は、
「俺は、じいさんのために――あなたを死なせないために、今日ここに来た」
と、彼の時間旅行の目的を瞬に告げてきたのである。






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