瞬はもちろん、彼の言葉に驚いた。 そして、とある事実(推論)に思い至り、更にその驚きを大きくしたのである。 過去を変えるということは、未来を変えるということである。 “瞬”が死ななかったら、氷河は彼の子供を儲けることをしないかもしれないではないか。 「そ……そんなことをしたら、あなたが消えてしまうんじゃないの?」 「多分。じいさんは、あなたが生きていたら、あなたしか見ない人生を生きたと思う。あなた、そんなふうだけど、男の子なんでしょう?」 氷河の孫に『男の子』呼ばわりされる奇妙さ。 本来 瞬は、彼よりずっと年上の過去の人間なのだ。 その奇妙な感覚に、だが瞬は、いつまでも戸惑ってはいられなかった。 彼の言葉を信じるなら、氷河の孫と名乗る この青年は、自分という存在を消し去るために、今ここにいるということになる。 それは、瞬には受け入れ難い“未来”だった。 「過去を変えたりなんかしちゃいけないよ。あなたは今幸せじゃないの」 「俺は、両親を早くに亡くした。ただ一人の身寄りだったじいさんに育ててもらった。俺は、じいさんに後悔のない人生を生きてほしい。じいさんは、あなたといる方が幸せだったと思う」 「……」 氷河の顔、氷河の髪。氷河と同じ体格と、氷河と同じ声、表情。 瞳の色だけが違う氷河の言葉に、瞬は胸が締めつけられるような苦しさを覚えたのである。 彼が彼自身の幸福を第一に考えているのなら、彼は、たとえば彼の両親を死なせないための努力をしていたはずだった。 実際、瞬はそれを考えた――“死ななかった母”とその生活を夢見て、その夢を氷河に告げることさえした。 だというのに、氷河の孫だと名乗る彼は、“今”にやってきたのだ。 自分とは何の関係もない“男の子”の命を守るために。 氷河の幸せを願って。 氷河の血を受けた彼の孫が、そんなにも心優しい青年だということが、瞬は嬉しかった。 そして、切なかった。 この青年を消し去るようなことは絶対にしたくない――と思う。 だが、同時に、彼が本当に氷河の血を受けた氷河の孫だというのなら、その決意を変えさせることは難しいだろう――とも、瞬は思ったのである。 氷河は、一つの事物を自らの目的と定めたら、その目的を獲得・達成するまでは他の何にも目をくれない、頑固で融通の利かない困った男なのだ。 彼は、その氷河の血を受けた青年なのである。 今、この庭に立つ二人の人間は、同じ目的を持っている。 『氷河の幸せ』という、ただ一つの目的。 その目的を達成するために、瞬は――瞬もまた、他のすべてから目を逸らす決意をした。 「あなた……は、もっと過去に行くこともできるの」 「ああ」 「なら、僕なんかより、氷河のお母さんを助けてくれないかな。氷河のお母さんが生きていれば、氷河はもっと幸せに――本当に幸せになれていたと思うんだ」 「じいさんの母さん?」 それは彼にとっては意外な人物――もしかしたら彼には、その存在自体が初耳のことだったのかもしれない。 彼は、そういう顔をした。 氷河の幼い頃の愛のすべて。 氷河が彼女のことを自分の孫に語っていなかったらしいことに、瞬は驚きを禁じ得なかった。 氷河の母を知らない氷河の孫が、はっきりと首を横に振る。 「じいさんの願いはあなたの幸福だった。じいさんは、あなたの幸福を確かめたかった。おそらく、本当は自分の手であなたを幸せにしたかったんだと思う。じいさんの母さんを助けに行くくらいなら、あなたのお母さんを死なせないようにすることの方が、まだしも じいさんの希望に沿っていると、俺は思う」 「僕は――」 瞬は、もはや そんなことを望んではいなかった。 瞬は今、とても幸福だった。 自分に関わる過去を修正して違う幸福を得たいとは、 瞬も、首を左右に振る。 「僕はあなたにそんなことをしてもらわなくても十分に幸せだよ。氷河に会えたし」 「じいさんの母さんを助けたら、じいさんは日本にやってこないことになって、あなたに会うことはないかもしれない。あなたは“じいさんに会えて幸せ”にはなれない」 「そうだね……」 そうなのかもしれない。 氷河の過去を変えることで、自分は“不幸になる”かもしれない。 だが――だが、それが何だというのだろう。 それが何だというのだ。 「氷河が幸せなら、僕はそれでいいんだ」 「おまえだけが聖闘士になって、つらい戦いを課せられて、だというのに氷河はおまえのことなど何も知らずに 自分の母親と のほほんと平和に暮らして、いつまでもぬくぬくと守られる側の人間でいて、それでもおまえは――」 それこそが瞬の望みだった。 氷河が、この世に悲しみや孤独などというものが存在することを知らずに生きていくこと。 それ以上の幸福が――“瞬”という人間にとって、それ以上の幸福が――この世にあるだろうか。 同じ目的を抱いて この庭に立つ同志に、瞬は初めて微笑した。 彼なら、自分の気持ちをわかってくれるに違いないと信じて。 「氷河のマーマの方が、僕よりずっと氷河を幸せにしてあげられる」 「そんなことがあるかっ!」 黒い瞳をした氷河の 怒声に似た声が、夏の眩しい緑に覆われた庭に響き、次の瞬間、瞬は彼に抱きしめられていた。 |