彼は氷河と同じ背格好をしていた。 同じ体温と同じ匂いを持っていた。 瞬は、氷河に抱きしめられた時にいつもそうなるように陶然としかけ、そんな自分に気付くと、慌てて自らに活を入れたのである。 彼は氷河ではないのだ。 「あ……あの……氷河のお孫さ……ん?」 その段になって初めて、まだ彼の名前を聞いていなかったことに気付く。 しかし、今の瞬には、彼の名前を確かめることより先に解決しなければならない問題があった。 「は……放してください。あの、こんなとこ氷河に見られたら、僕、困る――」 何を馬鹿げたことを言ってるのかと自分でも思ったのだが、しかし、それが今の瞬のいちばんの重大事であり心配事だったのだ。 とはいえ、相手は氷河の孫である。 力任せに彼の胸や肩を押しのけるような邪険な真似はできない。 結局 瞬は、彼が彼の意思で彼の腕の中にあるものを解放してくれる時を待つことしかできなかったのである。 その時、瞬の背後で、誰かが がさりと珊瑚樹の茂みをかき分ける音がした。 瞬がびくりと身体を震わせる。 最悪の事態を瞬は覚悟したのだが、幸いにも、瞬と氷河の孫の抱擁シーンの第一発見者は 瞬が恐れていた人物ではなかった。 「あーあ」 「大方、こんなことだろうとは思っていたが……」 呆れたような声をあげて その場に現われたのは氷河ではなく、星矢と紫龍の二人だったのである。 瞬は一瞬、自分がこの事態に安堵していいのかどうかを迷うことになった。 ここで彼等にこうなった事情を説明したとして、果たして彼等はそんな荒唐無稽な話を信じてくれるのか。 たとえ信じてもらえたとしても、『瞬が氷河ではない男と抱き合っていた』という事実は消せないわけで、その事実が氷河に知れたなら、彼はますます不機嫌の度合いを深めることになるだろう。 黒い瞳の氷河は、彼にしてみれば見知らぬ闖入者の出現を意に介したふうもなく、あくまで瞬をその腕の束縛から解放しようとはしない。 彼の胸の中で、瞬は、これ以上ないほど苦悩していた。 そんな瞬を綺麗に無視して、星矢が黒い瞳の氷河に話しかけていく。 「予定してたストーリーと全然違うじゃん。俺たち、何のためにあんな小細工までしたんだよ!」 「瞬が困ってるぞ。放してやれ。氷河のオマゴサン」 「やかましいっ!」 黒い瞳の氷河に にべもなく撥ねつけられた紫龍の発言が、瞬を戸惑わせた。 氷河のオマゴサン――と、紫龍は言った。 では、彼は――おそらく星矢も――この氷河ではない氷河の正体を知っているのだ。 「ど……どうして……」 どうして星矢と紫龍が、未来から現在にやってきたという氷河の孫を知っているのか。 瞬は当然のごとくに、その事実に疑念を抱いた。 氷河の孫の目的は、今日瞬を死なせないことだったのだから、瞬以外の人間に会う必要はなく、また瞬以外の人間にその正体を知らせる必要もないはずなのである。 だが、彼が何者であるのかを、星矢と紫龍が知っているのは当然のことだった。 彼等は、黒い瞳の氷河の正体を 「あ、そいつ、氷河だから。本物の氷河。目が黒いのはカラーコンタクト入れただけ」 「で……でも、僕は氷河の声を――」 瞬は、氷河の声を聞いたのだ。 瞬が聞いたその声は確かに氷河のもので、そして、黒い瞳の氷河から発せられたものではなかった。 「ああ、あれは――」 瞬を放そうとしない氷河のオマゴサンを瞬から引き離すことを、星矢たちは諦めたらしい。 瞬を抱きしめ続けている金髪の男に呆れたような一瞥を投げ、彼等は彼等が仕組んだ企みのからくりを瞬に説明してくれた。 「あれは、前もって録音しといたのを流したんだ。別のところで氷河の声が聞こえたら、目の前に氷河がいても、それが氷河だとは信じられなくなるだろ」 「氷河が二人いると錯覚させるための小細工だ。ひと昔前のミステリーの常套手段だな」 「ど……どういうこと」 「おまえが馬鹿げた学園ラブストーリーに憧れてるって、この馬鹿が、らしくもなく思い詰めた顔して苦悩してるからさ〜」 言いながら、氷河の背中を星矢がどつく。 あくまで瞬を放そうとしない氷河に呆れてしまった星矢の言葉の続きは、紫龍が引き受けてくれた。 「予定では、氷河のオマゴサンの忠告を 「なのに、おまえがマーマの救出なんてことを言い出すから、予定してた筋書きが滅茶苦茶になっちまった――ってわけ」 「あ……」 このタイムトラベル・ストーリーの真実を知らされた瞬が、声を失う。 では、すべては――未来からやってきた氷河の孫も、黒い瞳の氷河が語った未来も――、“馬鹿げた学園ラブストーリー”を夢見ている仲間の目を覚まさせるために、瞬の仲間たちが仕組んだ芝居だったのだ――。 |