真実を知らされて言うべき言葉が思いつかないでいるらしい瞬を見やり、紫龍が、どこかしみじみした口調で呟く。
「とはいえ、まさかおまえが こんな馬鹿げた筋書きの芝居を こうまであっさり信じ込むとは、俺も星矢も思ってもいなかったんだが……」
「僕は……だって……」

紫龍の言う通りだった。
氷河の孫が未来からやってきた――などという突拍子のない話を、なぜ自分は ほとんど疑うことなく信じてしまったのか。
星矢たちが あれこれ小細工を弄したとはいえ、それにしても、それは、常識のある人間なら まず信じるはずのない作り話である。
だというのに、自分はなぜその荒唐無稽な話を信じたのか――信じずにはいられなかったのか――。
その理由が瞬にはわからなかった。
まもなく、瞬は、その理由に気付いてしまったが。

それは、“氷河の孫”という存在自体が、以前から瞬がその胸中に抱いていた不安に合致していたからだった。
合致しているにも関わらず、それは、瞬が氷河に疎んじられるようになるという最悪の事態の結果ではなかった。
だから、瞬は信じずにはいられなかったのである。

瞬はいつも不安だったのだ。
氷河に抱きしめられている時にも不安だった。
二人はいつまで一緒にいることができるのか、氷河の心がいつかは自分から離れ、他の誰かに――たとえば、氷河にもっと明るい未来を与えることのできる他の少女に――奪われてしまうのではないか、と。

だから、氷河を不機嫌にしても確かめたかった。
彼が、自分の我儘をどこまで許してくれるのか。
彼が、どれだけ自分を好きでいてくれるのか。
氷河の意に沿わぬ言動を繰り返し、氷河を不機嫌にし、それでも彼に好きだと言ってほしかった。
氷河の心の不変の確証を、それを保証してくれるものを、瞬は無意識の内に求めていたのだ。
だが、それは、無意味な反発を繰り返すことで他人の誠意を確かめようとする反抗期の子供のやりようと同じである。
瞬は、今になってその事実に気付いた。

「今、俺を幸せにしてくれているのは おまえだ。なぜそれがわからないんだ!」
「氷河……」
その肩に顔を埋めるようにして瞬を抱きしめたまま、氷河が、瞬を責めるように、己れの無力を嘆くように訴えてくる。
なぜそれがわからなかったのか。
瞬自身、今となっては、氷河を信じ切ることができずにいた昨日までの自分が不思議でならなかった。

“今”――過去より未来より確かで大切な時。
“今”を信じず、つらい未来ばかりを案じていたら、人は 今その手の中にある幸福を みすみす失ってしまいかねない。
今、瞬を抱きしめている氷河の温もり。
それを信じることができなかったら、この世界には――過去にも未来にも――他に信じられるものなど、何ひとつ存在しないことになるではないか。
今の瞬を幸せにしてくれているものは、亡くなった母ではなく、憧れの氷河先輩でもなく、瞬の夢物語に不機嫌に背を向ける氷河 その人だった。

――もし過去を修正することができたなら、やり直すことができたらなら、今の自分はもっと幸せになれていたかもしれない。
今の氷河はもっと幸福だったかもしれない――。
そんなことを考える暇があったら、今の自分と、今自分が愛している人をもっと幸福にすることを考えるべきだった。

映画や小説の結末が、いつも同じ場所に行き着く訳が、今なら瞬にもわかった。
人に認められ受け入れられる真実は一つだけだから、なのだ。
人は過去を修正することはできない――という、誰にも覆すことのできない厳しい真実。
誰にも過ぎ去った過去を変えることはできず、人に変えることができるのは未来だけ。
今を精一杯生きることが未来の幸福につながる。
今の自分が、自分自身を、そして、愛する者たちを幸せにしようと努めることこそが、自分の未来を幸福なものにする唯一の方法なのだ。

「ごめんなさい、氷河。ごめんね、僕を許して」
唯一の真実にやっと辿り着くことができた瞬は、己れの愚かさを氷河に謝罪した。
そして、自分が今 誰よりも幸福になってほしいと願っている大切な人を、その両手で抱きしめた。






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