「マーマの手だ」 氷河が そう呟いた時、瞬の手には1本の縫い針が握られていた。 瞬は、取れかけていた氷河のYシャツのボタンをつけている最中だったのである。 今朝、氷河はダイニングルームに揃った仲間たちの前に、いつものように最後に姿を現わした。 そのシャツのいちばん上のボタンが今にも落ちそうになっていることが、瞬は食事の間中ずっと気になっていた。 朝食を終えてから氷河にそのことを告げると、彼は、どうせ留めないボタンだからそんなものはいらないと言う。 仲間にそんなだらしのない格好をしていてほしくないと瞬は食い下がり、氷河は、ならば着替えてくると告げて、自室に戻ろうとした。 氷河のその言葉に一抹の不安を覚えて、瞬は彼を引きとめたのである。 決して氷河をズボラだと言うわけではないが、ここで氷河がYシャツを着替えてしまったら、氷河はそれきりボタンの取れたかけたYシャツのことなど忘れてしまうのではないかと、瞬は懸念したのである。 「氷河、ボタンつけられるの?」 探るように尋ねた瞬に、案の定、氷河が、そんなことは考えてもいなかったという顔を向けてくる。 「氷河、ボタンのつけ方も知らなさそう……」 「……おまえはできるのか」 瞬に反問する氷河は、聖闘士にそんな芸当ができることの方がおかしいと言わんばかり。 そして、瞬に裁縫仕事ができるということを、半ば以上信じていない様子だった。 「それくらい、僕にだってできるよ」 ほとんど反射的に そう答えてしまった瞬は、自分の主張が嘘ではないことを証明するために、氷河の目の前でボタンつけの実演を行なうことになってしまったのである。 そういう経緯で――瞬にYシャツを剥ぎ取られ上半身裸の格好で、瞬の手が器用に動くのを感心したように眺めていた氷河が、ふいに呟いたのが、その言葉だった。 『マーマの手だ』 「え?」 「おまえの手は、俺のマーマの手にそっくりだ」 手にしていた氷河のYシャツから顔をあげた瞬に、氷河が真顔で告げてくる。 食い入るように仲間の手を見詰めてくる氷河の視線に、瞬は 少なからず――否、大いに――戸惑いを覚えることになった。 つい、針を持つ手の動きまでがぎこちなくなる。 「ボタンつけなんて、人によって個性の出る作業じゃないし、誰がしたって同じだよ」 「いや、ボタンつけがどうこうというんじゃなく、指の形や長さや手の線が――」 そう告げる間も、氷河の目は、針を持つ瞬の手の上にぴったりと据えられたままである。 顔ならまだしも、手などという部位をまじまじと見詰められるのは初めての経験で、瞬の戸惑いはますます大きくなっていった。 比較される対象が、氷河の最愛の母の手となると、いたたまれなさのようなものまで感じる。 「氷河のマーマなら、細くて白くて綺麗な指をしてたんでしょ? 僕の手は……チェーンを振り回している手だよ」 「だが、細くて白くて綺麗なことに変わりはない」 「僕の手は――」 血にまみれている――と言おうとして言えず、瞬は自分の唇を噛んだ。 そんな事実は――思い出すだけで、今 自分が手にしている白いYシャツに赤黒い染みをつけてしまいそうな気がする。 瞬は軽く首を横に振って、その考えを振り払った。 「そんなに似てるの? 憶えてるの?」 「顔より はっきり憶えているくらいだ。触ってもいいか」 「え……いいけど」 同じ部屋に星矢と紫龍がいる。 仲間たちの視線を気にして、瞬は一瞬ためらった。 氷河の奇矯な言動に慣れている彼等は、だが、氷河が瞬に提出した要望を、とりたてて気にするほどのものでもないと思っているらしい。 彼等の表情には変化らしい変化も現われなかった。 瞬がボタンをつけ終えるのを待ちきれない様子で、氷河が瞬の手を取る。 自分の手の平に、ひとまわりどころかふたまわりも細い瞬の手を載せて、彼は美術品でも鑑定するかのように熱心に、瞬の手の観察を始めた。 気恥ずかしくてならなかったのだが、亡き母の思い出に浸っているのだろう氷河の気持ちを思うと、瞬は自分の手を早々に引っ込めてしまうこともできなかったのである。 氷河の手に預けられているものは、瞬には さほど美しいものとは思えなかった。 氷河に見られることが不快というのではないのだが、自分の手が実は全く価値のないものであることを観察者に看破されてしまう前に、瞬は、少しでも早く彼の目の届かないところにそれを隠してしまいたかったのである。 |