瞬の手を凝視していた氷河が、やっと顔をあげる。
この気恥ずかしさと気まずさからついに解放されるのだと瞬が安堵した時、氷河はとんでもないことを言い出した。

「瞬、俺と付き合ってくれ」
「は?」
自分が何を言われたのか、瞬はすぐにはわからなかった――時間が経ってもわからなかった。
わかるはずがない。
氷河の言葉には、まるで脈絡がなかったのだ。
瞬にはそう感じられた。
言った当人は、そうは思っていないようだったが。

「つ……付き合うって、ど……どういう意味?」
「言葉通りだ。俺は、この手といつも一緒にいたい。朝も昼も夜も」
「あのね、氷河。そういうことは、手なんかで決めることじゃ――」
いくら氷河が重度のマザコンでも、たとえば、『マーマのように綺麗だ』とか『マーマのように優しい』ならともかく、『マーマの手に似た手を持っているから』という理由は、“お付き合い”の相手を選ぶ理由には なり得ないものだろう。
普通の・・・人間相手の場合ももちろんだが、チェーンを振りまわして戦う聖闘士は、明日にも現在の手の形状を失ってしまわないとも限らない。

氷河の軽率を思いとどまらせようとした瞬の機先を制する形で、氷河は瞬の言葉を遮った。
「実は、ボタンが取れたせいで着れなくなったYシャツが10枚以上たまってるんだが、瞬、おまえ、つけてくれないか」
「10枚以上――って、どうしてそんなにたまってるの」
氷河にそう問い返した時、瞬は既に彼の術中にはまっていた。
そう尋ね返してしまったせいで、瞬は、氷河との“お付き合い”を断る機会を逸してしまったのである。

「ボタンつけなんて仕事、誰に頼めばいいのかわからなかったんだ」
「自分でつけようっていう発想はないの」
「考えたこともない」
あまりにもきっぱりと言われて、瞬は深く嘆息することになった。

地上の平和と安寧のために命を懸けて戦う者たちに生活面での不自由はさせたくないという沙織の確たる意思によって、城戸邸の青銅聖闘士たちは大抵のものは希望を出せばすぐに手に入る状況に置かれていた。
当然、新しいYシャツも。

これが普通の家だったなら、Yシャツを10枚も使えない状態にしてしまったら、氷河は着替えにも困ることになっていたのではないか――。
瞬がそう心配してしまったのは、彼がそんなふうな城戸邸の豊かさに慣れてしまえずにいたからだったかもしれない。
人より恵まれていることに不吉を覚えてしまうほど、瞬は“ささやか”を希求する人間だった。
どんなにつらい日々にも耐えることができる。
だが、慣れぬ幸運は恐ろしいのだ。
そんなものに、まさに“慣れて”いなかったから。

「氷河ってほんとに……」
自分の身のまわりのことを気にかけないにも程があると、瞬は彼に苦言を呈するつもりだった。
が、氷河は、その言葉も素早く封じてしまう。
「おまえがつけてくれるんだから いいじゃないか。これからはずっと」
「……」

二人が“付き合うこと”が、いつのまにか決定事項になっている。
瞬は、焦りを覚えていた。
決して氷河と付き合うことが嫌なわけではない。
ただ瞬は、手の形状などという努力して得たものではない理由によって、自分が人に求められることを幸運と感じ――だから、恐かったのである。
それは瞬にとって“慣れぬ幸運”だったから。

「おまえらも文句はないな」
氷河が、星矢と紫龍の方に視線を巡らせ、尋ねる。
とはいえ彼は、同じ邸内で起居を共にしている仲間たちに二人が付き合うことの許可を求めたのではなく――それは問答無用の宣言だった。

氷河の突飛な言動に慣れている彼等は、今更 彼のお付き合い宣言ごときには動じる気配も見せない。
それどころか、彼等は、
「おまえが着替えを確保できるようになるんなら、それでいいんじゃねーの?」
「取れたボタンはとってあるのか? 沙織さんが俺たちに買い与える衣料品は、どれも結構なブランド物で、Yシャツのボタンもそこいらの店で買えるようなものじゃないぞ」
と、無責任な承認を氷河に与えてしまったのである。

瞬の意思はほとんど無視され――というより、表明する機会を奪われ――氷河と瞬の交際は城戸邸のアテナの聖闘士たちの了承事項になってしまったのだった。






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