もちろん、嘘の涙で完全に氷河を諦めさせることができたわけじゃないことは、私にだってわかってる。
これは、束の間の停戦でしかないわ。
でも、氷河の提案はあんまり急なことだったし、こっちにだって対抗策を考える時間が必要でしょ。
私は、私の許から飛び立っていこうとしている息子の母親として、当然のことをしただけよ。
正しい行動かどうかはともかく、少なくともそれは感情の上では自然なことだわ。

でも、色気づいてきた息子をこれからどう扱ったものやら。
翌日出勤した仕事場で、私は前途の多難を思い、長い溜め息をついた。

ちなみに、私は、日本では――いいえ、海外でも――ちょっとは名の知れた日本画家。
自国の伝統文化の真価を知らない日本人は、外国人にそれを認められて初めて、その価値を自覚し、そして、いい気分になるものらしい。
金髪で美貌の日本画家というので、私は画壇にもマスコミにも好意的に受け入れられている。

ええ、私は生粋の日本人じゃないわ。
10年ほど前に日本に帰化したロシア人。
東シベリアの片田舎で生まれ育ったわ。
シベリアは、どういうわけか、日本人には 雪と氷しかない土地だなんて間違ったイメージを持たれているみたいね。
まあ、実際に見渡す限り雪と氷しか見えない場所が多くあるのも事実だけど、ちゃんと町はある。
地下資源が豊富だから、それ関連の企業も多く進出してるし、その企業に従事してる人間も多くて、都市と呼んでいいような町もあるわ。
私は、ごく小さな村の出身だけど。

子供の頃から、絵は好きだった。
最初のうちは、水彩画・油絵を西洋絵画の技法で描いてたんだけど、そのうち、故郷の雪と氷だけの風景を描くには、色彩そのものより色の濃淡で事象を表現する水墨画の方が適していることに気付いたの。
そして、水墨画のコースがある日本の大学に留学してきて、やっぱり絵の勉強をしていた日本人の夫と知り合い、結婚した。

当時、ロシアは経済的にどん底状態にあったし、私を国費で留学させてくれた祖国には悪いと思ったけど、私は国には帰らず、夫の国に骨を埋める決意をした。
私に家族はなかったの。
夫も似たような境遇で、私たちが親密になったのはそういう事情もあったのかもしれない。

二人揃って売れない画家同士の夫婦。
それでも、やがて氷河が生まれて、私たちは幸せだったわ。
夫が事故で亡くなるまでは。
事故といっても、交通事故や飛行機事故じゃないのよ。
彼は、私たちの6度目の結婚記念日に、雪と氷の風景を描いた絵を私にプレゼントしようとして、そのモチーフを求めてなぜか信州の初春の山に分け入り、そこで遭難しちゃったの。

私は――何ていうか、あの時は、あの人があんまり馬鹿で、泣けばいいのか笑えばいいのかもわからなかった。
しばらく、ぼうっとして日々を過ごしていた。
何年も暮らしていたとはいえ、異国の地。
友人はいても、家族はなし。
そこで頼りの夫を失ってしまったんだから。
私は食事をとることも忘れて、小さなアパートの一室でうずくまり続けてた。
死にたいと思ったわけじゃないけど、生きていたいとも思わなかった。

そんなふうに生きることを放棄しかけていた私の前に、突然おにぎりが5つ出現した。
それは、外見は私そっくりなのに妙なところで夫に似てる氷河が、大事にしてた貯金箱を割ってコンビニで買ってきてくれたおにぎりだった。
あり金全部をはたいても、それしか買えなかったんですって。
あの時、氷河は丸2日、何も食べていなかったと思う。
でも、買ってきたものを全部私に差し出した。

私は、悲劇に酔って生きることをやめてる場合じゃないと思ったのよ。
私には夫に愛されていたっていう確信があった。
そういう確信を持てるのって、とても恵まれたことでしょう。
私は、夫のためにも、あの人そっくりに不器用で可愛い氷河を立派に育てあげなくちゃ……って思った。
5つのおにぎりを全部半分こして、それを泣きながら氷河と食べて、それから私は立ち上がったの。
たまたま大学の恩師が私の境遇に同情して、チャンスをくれた。
私が水墨画だけじゃなく彩色画も描くようになったのは、この時よ。
私はそのチャンスに食らいつき、自分でも思いがけないほど大きな成功を収めた。

この美貌で、異国の地で若くして夫を亡くした悲劇のヒロイン。
いったん人々の注目を浴びたら、私は、それまで無視され続けていた日本の社会に驚くほど好意的に迎え入れられ、絵の仕事が降るように舞い込んでくるようになった。
私は、女手ひとつというより絵筆一本で、そして、たった一人じゃなく氷河と夫に支えられて、ここまできたの。






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