「息子がね、彼女に会ってくれって言ってきたのよ」
そう告げた私の声は、自分でも意外に感じるほど落胆していた。
私は、自分はもっと――もっと怒っているか苛立ってるんだと思ってたのに。

「氷河先輩が?」
瞬ちゃんが、不思議な色と深みをたたえた瞳を見開く。
驚かせちゃったかな。
そう。瞬ちゃんは氷河と同じ高校に通ってるの。
学校には美術部もあるらしいけど、顧問の先生が洋画専門らしくて、だから、ここに通ってるんですって。

瞬ちゃんが日本画に興味を持ったのは、何でも和風なのが好きなお兄さんの影響で、ほんとは瞬ちゃんのお兄さんは瞬ちゃんに武道の達人になってほしかったらしいわ。
でも、小学生だった瞬ちゃんを連れていった古武道の道場の先生が――大笑いなことに、私と私の絵の大ファンだったんですって。
道場には、100万を下らない私の絵や 画集を並べた閲覧室があって、瞬ちゃんは古武道を身につける傍ら、日本画に親しみ、自分でも描くようになったというわけ。

瞬ちゃんは、学年は氷河より2年下で、どうも氷河に憧れてるようなのよね。
友だちというのではないらしいけど。
でも、友だちでなくても知ってるくらい、氷河は校内では目立つ生徒で、氷河を知らない生徒は校内には一人もいない――って、これは瞬ちゃんの言葉。
氷河は、学校では自分は変わり者と思われてるとか何とか言ってたけど、そんなのは 氷河らしくない謙遜か、でなかったら氷河の勘違いよ。

だって、瞬ちゃんが、氷河は学校でも人気者で人望があって、たくさんの女の子に憧れられてるって、私に教えてくれたもの。
氷河の言葉と瞬ちゃんの言葉なら、私は瞬ちゃんの言葉の方を信じるわ。
息子を信じてないというのじゃなく、本人じゃない方が客観的な判断ができるものだと思うからよ。
それにまあ……大切な息子のこと、いい評価の方を信じたいのが親心ってものでしょ。

「氷河先輩はもてるから……」
瞬ちゃんが呟くように言う。
やっぱり、瞬ちゃんの言葉の方が真実味があるわよ。
私は少し いい気分になって、そして、ちょっと元気を取り戻した。

「瞬ちゃん、氷河が付き合ってる相手の子を知ってる?」
「いえ。氷河先輩が特定の女の子と付き合ってるってわかったら、学校中が大騒ぎになりますよ。それがわかってるから、氷河先輩は、自分が特定の誰かと付き合ってることを隠してらっしゃるんじゃないでしょうか。それに、僕は学年も違うし、先輩と お話させていただいたことも数えるくらいしかなくて――」

瞬ちゃんはいつも、どこまでも控えめで礼儀正しい。
先輩だか後輩だかは知らないけど、突き詰めれば同じ学校の生徒にすぎない氷河に対して敬語を使って――それが更に私の気分をよくした。
同じ学校の生徒に敬語を使われるくらい、私の息子は学校で一目置かれてるってことを、瞬ちゃんは私に教えてくれてるわけだしねえ?

氷河も、どうせ付き合うなら、どこの馬の骨とも知れない女の子なんかより、瞬ちゃんと付き合えばいいのよ。
生徒学生の本分は勉強でしょ。
学校は恋をするための場所じゃなく、互いに尊敬し合える友人に出会い、友情を育むための場所であるべきだわ。

「隠れて付き合わなきゃならないような子なのよ、きっと。そんな子より――ねえ、瞬ちゃん、今度我が家に遊びにいらっしゃい。氷河に紹介してあげるわ」
「そんな……いいです。そんな図々しいことできません。僕なんか、氷河先輩とお近づきになれるような生徒じゃないです」
「あら、そんなことないわ。氷河なんて、図体がでかいだけのデクノボウよ」
「そんなはずないです。氷河先輩は、成績優秀で、スポーツも万能で、綺麗で、優しくて――ほんとに優しくて――」
「あらあら」
息子を――しかも、女手一つで育ててきた最愛の一人息子を――ここまで褒められると、母親としては最高にいい気分。
まさに得意の絶頂よ。

ああ、本当に瞬ちゃんは素直で正直で可愛いわ。
憧れの人の母親と知り合ったっていうのに、そのチャンスを有効活用しようなんて さもしいことを考えもせず、遠慮深くて。
家族に会わせろなんて図々しいことを要求してくるどっかの女の子とは段違い平行棒。
親父ギャグと笑わば笑え。
二本の平行線は永遠に交わることはないって、ユークリッドも言ってるわ。
……ロバチェフスキーだったかしら。

それはともかく。
瞬ちゃんの控えめな態度に打たれた私は、ますます氷河に瞬ちゃんを引き会わせたくなった。
氷河は、瞬ちゃんみたいな子と近付きになって、謙譲の美徳を学ぶべきなのよ。
そして、図々しい女の子のことなんて忘れるべき。
私は思わず身を乗り出して――そこで、ラウンジの時計が講座開始の時刻を示していることに気付いた。

「あの、僕の絵、見ていただけますか。結構進んだんです。もうすぐ仕上げに入れそうです」
「肝心のことを忘れていたわ。教室に行かなくちゃ!」
瞬ちゃんに促されて、私は慌てて掛けていた椅子から立ち上がった。






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