人生の不合理に腹を立てつつ家に帰ったら、そこでは氷河が私を待ち構えていた。
そう言えば、今日は土曜日だったわね。
絵画教室のある日は私はいつも機嫌がいいから、そこに付け込もうとしたんでしょうけど、今日は駄目よ。
いつもは私の上機嫌の素である瞬ちゃんが、今日は私の立腹の種になってるんだから。

でも、氷河は、私がいつもと違うことに気付いていないみたい。
私がいつも通りに機嫌がいいんだと思い込んでる様子で、またあの話をむしかえしてきた。
「頼む。ほんの1、2時間でいいから時間を割いてくれ――いや、割いてください。結婚がどうとかいうんじゃなく――そう、俺はマーマに鑑定をしてほしいだけなんだ」
母親である私を立てるつもりで氷河はそんなふうに言ったのかもしれないけど――たとえ好意を抱けそうにない人が相手のことでも、そんな言い方、私は嫌よ。

「鑑定だなんて、そんな物品扱いの言い方、その人に失礼でしょ。マーマは氷河をそんなふうに育てた覚えはないわよ」
「あ、いや、俺の目には最高に可愛く見えるし、本当に優しい子なんだ。ただ、俺は、恋のせいで目が眩んでいて、ちゃんとものが見えていないかもしれないだろう? だから、客観的かつ冷静な目を持つマーマの判断を仰ぎたいと思う次第で――」
そんな用意しておいた台本を読んでるみたいなセリフで持ち上げようとしても駄目。
氷河ったら、ほんとにどうしちゃったのかしら。
私は、氷河をこんな馬鹿な子に育てた覚えはないわよ。

「私が駄目と言ったら、その子と付き合うのをやめるの」
恋のせいで まともな判断力をどっかに置き忘れてきちゃってるらしい氷河に、私はちょっと意地悪く突っ込んでみた。
それまで見苦しいほど低姿勢で私の機嫌をとろうとしていた氷河が、ふいに口をつぐむ。
それから、氷河は真顔になって、低い声で、でもはっきりと断言した。
「……やめない」
――って。

ああ、氷河は本気なんだ。
そりゃそうよね。
その気になれば、氷河は私に隠れて誰とだって付き合っていられる。
なのに わざわざ私に会わせようとするくらいなんだから、氷河はその子のことを本気で好きなのよ。
そんなこと、最初からわかってたけど、でも、そんなの寂しいし悔しい。
子離れできていないのは私の方だって、それもわかってるけど、でも、こうなったら意地よ。

「ねえ、じゃあ、こういうのはどう? マーマ、その子に会ってあげてもいいわ。ただし、マーマもお薦めの子を連れてくる。その上で、氷河の連れてくる子とマーマのお気に入りの子と、どっちが氷河にふさわしいか、対決させてみましょうよ!」
「マーマ……」
氷河は、なんだか疲れたような目を私に向けてきた。
息子の駄々っ子振りにあきれてる母親みたいな目を。
これじゃあ、まるで立場が逆だわ。

私だって、自分が無茶なことを言ってるのはわかってる。
でも、手塩にかけて育ててきた最愛の一人息子を、見知らぬ女に為す術もなく奪われちゃうのは、どうしても癪なのよ。
無駄な抵抗でもしてみないことには、気が収まらない。
「本当に可愛い子なの。氷河をすごく慕ってて、氷河が憧れの王子様って感じで」
「王子様?」

氷河が露骨に嫌そうな顔をする。
ま、自分を知っている人間なら、当然の反応ね。
氷河が ここで やにさがるような男じゃないのは、結構なことだわ。
「しかも、絵の才能は私の比じゃないわ。尋常のものじゃないのよ。認められた日本画家の作品が、どれほどの高値で売れるか知ってるでしょう? 売れてる日本画家は、そこいらへんの芸能人やプロスポーツ選手なんかとは納税額の桁が違うのよ。外国からやってきた ぽっと出の私でさえ、筆1本でこの家を建てられたくらい。氷河、その気になれば、髪結いの亭主になれるわよ」

今時の高校生が、『髪結いの亭主』なんて言い回しを知ってるのかどうかは あやしいものだし、たとえ知っていても、氷河がそんなものになりたがる子じゃないことはわかってる。
案の定、氷河は不愉快そうな顔になった。
てことは、『髪結いの亭主』の意味を、氷河は知ってたってことかしら。
まあ、そんなことはどうでもいいけど。
ともかく、氷河は、そんなことを言った私に腹を立てたような顔を向けてきた。

「マーマ、俺には好きな子がいるんだぞ」
「その気持ちが永遠に変わらないわけじゃないでしょう」
「変わらない!」
「……」
「俺のこの気持ちは変わらない」
氷河の断固とした言葉に声を失った私に、氷河は、もう一度 その言葉を繰り返した。

私は、悔しいやら、嬉しいやら、切ないやら――氷河はあの人の息子なんだってことを思い出して、泣きそうになった。
そうよね。
氷河はあの人の子だもの。
どっか抜けてても、一途で情熱的で、いつも誠実で一生懸命で――。
氷河は、あの人が私を愛してくれたみたいに、私の知らない誰かを愛するんだ。
私はやっぱり、氷河の母親として、息子の成長を喜ばなきゃならないんだろう……。

「いいわ。来週の日曜日、10時でどう? 午前のお茶を一緒にいただきましょう。でも、マーマもマーマのお薦めの子を連れてくるわよ」
私は、結局氷河に折れた。
『私のお薦めの子』っていうのは、もちろん瞬ちゃんのことよ。
そして瞬ちゃんを同席させると言ったのは、私の最後の意地。
こうなってみると、瞬ちゃんが男の子でよかった――と思えるわね。
いくら私が強力プッシュしても、氷河が瞬ちゃんに心を移すことはないんだから。






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