「瞬ちゃん。氷河がいよいよ本格的に親離れしようとしているようよ」
次の水曜日、絵画教室で会った瞬ちゃんに、私は、まるで愚痴るみたいに氷河の親離れの報告をした。
「先生……」
瞬ちゃんが、気遣わしげな眼差しを私に向けてくる。

こんなこと愚痴られたって、瞬ちゃんも困るだけでしょうに、やっぱり瞬ちゃんは優しいわ。
自分の感情を自覚するより先に、自然に人の気持ちを推し量って同情しちゃう子。
女の子だったら、絶対氷河の好み。
私は、氷河に瞬ちゃんを守らせてやりたかった……んだけど。

けど、これが運命なら仕方がないわ。
私は、瞬ちゃんに薄い苦笑いを見せた。
「嬉しいような寂しいような、複雑な気持ち。親離れせずに高校卒業まで……長く続いた方よね。普通は、男の子なんて、小学校か中学校で反抗期に入って、母親を疎んじるようになるものなのに」

母ひとり子ひとり。
しかも、放っておくと食事もとらず、息子に食事を与えることもせず、自分ひとりの悲しみに夢中になって飢えて死のうとするような母親。
私が氷河のことを気に掛けている以上に、氷河はいつも私のことを心配してくれていたと思う。

画家で、講演やそれこそカルチャースクールの教室に出る時以外は ほとんど家にいる私のことを気遣って、氷河は夜遊びひとつしない子だった。
今時の高校生で、毎日必ず母親と夕食を食べてくれる男の子って、いったいどれくらいいるのかしら。
女手ひとつで苦労して息子を育てたって言っても、私はそれ以上に息子の存在に頼ってきた母親だった。
だから、氷河には自分のしたいことをする権利があると思う。

私の苦労を見てるし、氷河自身苦労してきたから、氷河は頭もよくて、生活面では要領のいいところもある子よ。
適当に立ち回って母親に内緒で遊びまわることくらい、しようと思えばいくらでもできはず。
なのに、氷河はそれをしなかった。
氷河は、息子としては文句のつけようのない優等生だったわ。
その氷河が、初めて本気で私に逆らった。――私以外の誰かのために。

「先生のことを大切に思っているんですよ。氷河先輩は優しいから」
うん、わかってる。
あの子は優しい子よ。
「その人を先生に会わせようと考えたのも、先生に秘密を作りたくないとか、先生に心配をかけたくないとか、そういう考えがあってのことだと思います」
「ええ」

多分、そう。
氷河の中には、そういう気持ちもあると思う。
わかってるのよ、本当に。
なのに、なぜか素直に喜べない。
私は、心の狭い最低な母親だわ。

そう思って落ち込みかけた私に、瞬ちゃんがひどく優しい目と声で尋ねてきた。
「……お母さんって、誰でも、そんなふうに子供のことを心配したり、妬いたりするものなんですか?」
「あら、妬いてるように見える?」
私が尋ね返すと、瞬ちゃんは遠慮がちに小さく、でも、しっかり頷いた。
「少しだけ」

うん、そうなのかもね……。
氷河は私の生き甲斐。
氷河のためだけに、あの人が私に残してくれた たった一つのもののためだけに、私はこの国でがむしゃらに生きてきた。
でも、私にそうすることができたのは、氷河が私を支えていてくれたからだったのよ。

私は、氷河が生まれてからこれまでのことを あれこれと思い出して、そして、少ししんみりした顔になったらしい。
瞬ちゃんが、そんな私を励ますように言った。
「氷河先輩が親離れしたら、僕が代わりに先生にお母さんになってもらおうかな」
「瞬ちゃんが私の子供になってくれたら、私、きっと氷河より可愛がるわ」
「本当ですか?」

それは、大事な息子を手放さざるを得なくなった母親と、お母様を早くに亡くした子供の、ささやかな冗談めいた軽口だった。
軽口のはずだったのに。
その戯れ言を笑おうとしたらしい瞬ちゃんの瞳から、ふいに涙がひとつぶ ふたつぶ零れ落ちた――。

「しゅ……瞬ちゃん?」
「あ、いえ、僕、お母さんって知らなくて――。お母さんを『お母さん』って呼んだこともなくて……氷河先輩が羨ましい……。氷河先輩に好きになってもらえた人が羨ましい……」
「瞬ちゃん……」
もーお、瞬ちゃんたら、ほんとに可愛い可愛い可愛い!
抱きしめたいくらい可愛い!
私はやっぱり、私から氷河を奪おうとしてる図々しい女の子より、たとえ男の子でも瞬ちゃんの方がずっといいわ!

だいいち、私の氷河と並んで見劣りしない美貌の持ち主が、そうそういるわけないでしょう。
瞬ちゃんくらいのものよ。
瞬ちゃんだけよ、絶対に!

「ね、私、その子と今度の日曜日に会うことになってるの。その時、瞬ちゃんも我が家に来てくれない?」
「そんな……お邪魔でしょう」
「私ひとりだと、氷河が連れてきた子に意地悪してしまいそうなの。私、そんな嫌な母親になりたくないわ」

最後の無駄な足掻きをしようとしている私の心を知ってか知らずか――瞬ちゃんは、すごくすごく優しい声で、
「……氷河先輩は、先生のことが大好きですよ」
と、私に言ってくれた。






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