カミュが マレ地区にあるハーデスの邸宅を訪ねる気になったのは、恋で死ぬ男のいることを証明しようと言わんばかりに日毎に憔悴していくヒョウガのありさまを、見るに見かねたからだった。
フランスで最も旧い大公爵家の当主の訪問の希望は、欧州最大の富を持つ男に、もちろん快く受け入れられたが、その瀟洒な邸宅の客間に招き入れられたカミュの態度は、自分から希望した会談に臨んでいるというのに、“いかにも不本意”なものだった。
不本意そうに、彼は この屋敷の主人に彼の訪問の用向きを告げた。

「私の親戚が、貴殿の奥方に恋焦がれて、今にも死にそうなありさまになっている。貴殿の知恵と才覚をお借りしたい。ヒョウガに彼の恋を諦めさせてほしい。ヒョウガはまだ若く、才もある。恋で破滅するには惜しい男なんだ。まだ本人には話していないが、私は彼に私の爵位を継がせたいと思っている。そのためにフランスに呼び寄せた。恋ごときで死なせてしまっては、私は彼の母にも、彼をフランスに渡らせてくれた現大公にも申し訳が立たない」
いかにも手早く用件を済ませたい様子で、カミュは彼の訪問の目的と背景を一気に説明してのけた。
そんな彼に、館の主から、思いがけない答えが返ってくる。

「それは難しいな。私の妻も、貴殿のご親戚と同じ病で床に伏せっているので」
ハーデスの返答に驚き、カミュは目をみはることになったのである。
ヒョウガから聞いていた話とハーデスの語る話は、全く違っている――全く噛み合っていなかったのだ。
「ヒョウガの片思いではなかったのか? あれは、君の奥方に きっぱり拒絶されたと言っていたぞ」
ハーデスが、敵対してはいないが そりの合わない友人に、感情が全く伴っていない笑みを向ける。
そして、彼は低く呟いた。
「……恋とは理解できない力だ」

ヒョウガを振る少女の存在も信じ難いが、欧州第一の男に そんな虚ろな笑みを作らせる人間が存在することもまた、カミュには信じられないことだった。
いったい、あの細い、まだ子供と言っていい歳の少女にどんな魅力があるのかと、カミュは深く疑うことになったのである。

「君は……君の奥方を愛しているのか」
富、名誉、美貌。現世で手に入れることのできるほぼすべてを その手にしている男は、もちろん彼の意に沿わない女性を妻に迎える必要はない。
ハーデスが彼の妻を彼自身の意思で選んだことは、カミュにもわかっていた。
だが、彼がシュンを選んだ理由は“愛”なのか、そもそも この男は本気で人を愛することがあるのか――その答えは、カミュにもわかっていなかったのである。

ハーデスの答えは実に意外なものだった。
あまりに普通で、彼らしくない答えだった。
「シュンは、この世界で私が唯一心から愛している人間だ。幸せになってほしい。そのためになら、シュンを他の男の手に委ねることにも やぶさかではない。だが、私以外の者が、シュンを永遠に守れるものだろうか。本当に……彼は あの子を幸せにしてくれるのか」

自分が公爵家の後継として選んだ人物を、まるで何の力もない無一物のように言われ――ハーデスに比べれば、どんな男でも無能無力ではあるのだろうが――カミュは、少々機嫌を損ねた。
「ヒョウガは誠実な男だ。一本気で融通のきかないところはあるが」
「貴殿に似ているな」
「……」
冥府の王の名を冠する男が、敵対してはいないが そりの合わない人間を褒めるはずがない。
当然それは侮辱の言葉であると解して、カミュの中には一瞬 腹立たしさが生まれた。
が、
「ならば良い男なのだろう」
というハーデスの呟きが、カミュの中に生まれた感情を消滅させる。
フランスきっての二人の大人物は、決して敵対しているわけではなかった。
少々そりが合わないだけで。

「君に認められてもヒョウガが喜ぶとは思えないし、そんなことは何の解決にもならないだろう。君たちは離婚はできないのだし、ヒョウガに諦めさせるしか――」
異教の神の名を冠してはいても、ハーデスは歴としたキリスト教徒のはずである。
彼はシュンを彼の妻にする許可を、教会から授けられたはずだった。
そして、カソリック教徒は、教会の許しがなければ離婚はできない。

そんなカミュの考えを見透かしたように、ハーデスは軽く首を横に振った。
「できないことはない。なにしろ、この世には金で買えないものはないからな。地位も名誉も夫も妻も自由も――」
カミュが、欧州一の富を持つ男の その発言にムッとした顔になる。
「私は、君のその考え方が嫌いでね」
「訂正しよう。金で買えないものは滅多に・・・ない・・
そりの合わない男の機嫌を取り結ぼうとしたわけではないのだろうが、ハーデスは自らの発言に修正を入れた。
それから、短く吐息する。

「しかし、私が欲しいのは、そういうものばかりだ。そして結局、私はいつも自分の欲しいものを手に入れることができない」
すべてを その手中に収めていると思っていた欧州一の富を持つ男。
ハーデスの自虐的な言葉に、カミュは少なからず驚かされたのである。
カミュが知っているハーデスは、こんな人間的な男ではなかった。
いつも自信に満ち、神も金で買収してみせると言わんばかりに傲慢な男だった。
彼をこんな――まるで普通の男に変えてしまったのが 彼の妻の存在なのだとしたら、野心や崇高な理想を持つ男は恋などすべきではないと、カミュは心から驚嘆し思ったのである。

だが、彼はそんなことくらいで驚いている場合ではなかったのである。
ハーデスは、敵対してはいないが そりの合わない友人を驚かすために、まだまだたくさんの弾を用意していてくれたのだ。
「私とシュンの結婚は、いわゆる白い結婚というやつでね。私はシュンを一度も抱いたことがない。教会でその事実を宣誓すれば、離婚は許可されるだろう」
「抱いていない? 結婚前には あれほど浮名を流していた君が、正式に結婚した奥方に触れていないというのか」
「天使を抱くことは、悪魔には致命傷になる。――とは思わないか」

「……」
カミュは、人にも天使にも恋をしたことがなかったので、悪魔の問いかけに答えることはできなかった。






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