そんな無作法なことはできないと、カミュは固辞したのだが、ハーデスは礼節を重んじる公爵を説き伏せて、彼を冥府の王の妻の寝室に連れていった。
さすがに室内にまで引き入れるつもりはなかったらしく、カミュを寝室の扉の前に立たせ、ハーデスひとりだけが妻の寝台の側に歩み寄る。

おそらく妻のために部屋を改装したのだろう。
先程までカミュがいた贅で客人を圧倒するような客間とはうって変わって、そこは やわらかな色で統一され自然な採光を考慮された、いってみれば自然志向の部屋だった。
庭に向かって窓が大きくとってあり、その脇に広い寝台がある。
そこには白い夜着を着た少女とも少年ともつかない生き物が、幾段にも重ねられた枕に上体を支えられるようにして、窓の外を眺めていた。
窓の外に見たいものがあるわけではないようだった。
シュンはただ、ハーデスの顔を見ないためだけに、視線を窓の外に投げているらしい。
カミュの目にはそう見えた。

「シュン、具合いはどうだ」
ハーデスに問われても、シュンは何も答えなかった。
つまり、具合いは良くないのだろう。
代わりにシュンは、ハーデスの方を振り向かないまま――部屋の入り口にカミュがいることに気付かぬまま――カミュが驚いたことには、自分の夫に他の男への恋心を語り始めた。

「僕のこと、変だと思う? ヒョウガとはたった一度、ボルドーの教会で会っただけ――ううん、見ただけなの。行きずりの旅行者で、ボルドーに滞在中していた半月の間、毎日 教会でお母様のために祈ってた。お母様に愛し愛された幸福な人なんだろうと思った。生と死が二人を分かっても、その絆が切れないほど。――羨ましかった。僕には、愛せる人が一人もいなかったから。誰かを愛したいのに、誰もいなかった。僕は生きているから、亡くなった人より、亡くなった人の分も、ヒョウガを愛してあげられるのに……って、傲慢なことを考えた」

「そうか」
ハーデスが妻の恋を責めるでもなく、その髪に手を伸ばす。
「ヒョウガに会うまで、僕は、愛すべき人がいないのなら、すべての人を愛すればいいと思ってたんだ。実際、僕には嫌いな人はいなかった。でも、それは、嫌ったり憎んだりできるほど近しい人がいなかっただけで――」
「寂しかったろう。おまえは人を愛するために生まれてきたような子なのに」
ハーデスの声は、冥府の王の名が冗談としか思えないほどに優しげだった。
シュンも、どこか彼に甘えているようなところがあった。

「だから、あなたが僕を迎えに来てくれた時、僕はあなたをいっぱい愛したいと思った。ほんとだよ。僕は、ヒョウガがヒョウガのお母様を愛するように、あなたを愛そうとした。あなたは、僕が生まれて初めて出会った、僕が愛してもいい人だった。なのに……」
やっと愛していい人に巡り会えたというのに――。
「なのに今はヒョウガのことしか考えられない。どうしてなの……」

「それが恋というものなのだろう」
妻の寝台の枕許に腰をおろし、ハーデスが、シュンの肩ごと その身体を胸に抱き寄せる。
二人が語らっている話題が話題でなかったら、それは、ありきたりな幸福を願う市民の家庭で 夫が妻の身を案じている、ごく普通の光景だった。
登場人物が美しすぎることを除けば、ありふれた光景と言っていい。
「少しでも私を愛してくれているのなら、食事だけはとってくれ。今度、彼に会った時、やつれた姿を見せることになったら、彼が心配するだろう」
夫以外の男を引き合いに出して、彼のものであるはずの妻をいたわる夫――というのは、一般的に存在するものではないにしても。

だからというわけでもないようだったが、シュンはハーデスの胸の中で首を横に振った。
「ヒョウガにはもう会えない。僕はヒョウガを傷付けた。許してもらえるはずがない。僕はヒョウガに二度と会えない……」
自らが言葉にした現実に耐えかねたように、ハーデスの妻がその瞳に涙をあふれさせる。
その時になってカミュは、自分が『クレーヴの奥方』のような不可解な恋愛心理劇の一場面を見せられている観客の役を振られていることに気付いたのだった。


「シュンはこのままでは、憔悴して本当に死んでしまいかねない。やつれていくシュンを見ているのは つらい。あの青年をシュンのところに連れてきてくれないか」
「それでいいのか、君は」
「私は誰よりもシュンを愛しているが――恋の力には勝てない」
欧州一の富を持ち、誰よりも傲慢だった男にこんな目をさせるとは。
なるほど恋の力は偉大だと、そして恐ろしいものだと、カミュは思ったのである。



■ クレーヴの奥方(1678 ラ・ファイエット夫人著) 恋愛心理小説の祖と言われている



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