翌日も、彼は瞬の許にやってきた。
彼はもう 哀れなアテナの聖闘士を闇の中に取り込むことを諦めたのだとばかり思っていた瞬は、彼が再び自分の許にやってきたことに少々驚いた。
しかし、その気配を顕在化するなり彼が告げた言葉に、瞬は“少々驚いて”などいられなくなったのである。
「おまえの楽しみ方を考えたんだが」
「楽しみ方?」
「おまえを不幸にした者たちに復讐してみないか?」
そう、彼は言ったのだ。

いったい彼は何を言い出したのかと、瞬は訝ったのである。
彼は、哀れなアテナの聖闘士の人生を楽しく愉快なものにするために、不吉な闇として ここにいるのではないはずだった。
瞬はそう思っていた。
だいいち、“瞬”が復讐しなければならない相手とは誰のことなのだ。

「復讐? 僕を不幸にした人たちって誰」
「すべてだろう。おまえを生んで死んだ父母、戦いに駆り出したアテナ、城戸光政、その配下の者たち、兄弟や仲間の情に訴えて、おまえを戦い続けさせようとする者たち、もちろん、おまえを倒そうとする者たち、おまえに守られているだけの戦う術を持たない人間たち。世の中の何もかもだ。皆がよってたかっておまえを不幸にしている」

彼の言葉に、瞬はしばし あっけにとられることになったのである。
それではこの世界には誰一人“瞬”を愛している者がいないことになる――すべてが瞬を憎んでいる“敵”だということになる。
そんなことがあるはずがないではないか。
少なくとも、彼が夜毎 現れるようになるまで、瞬は自分を非常に幸福な人間だと思っていたのだ。――そう信じていたような気がする。

「僕には味方はいないの。誰もいないの。あなたはそう言うの」
「……」
闇が 雄弁に何かもっともらしいことを言ってくれていたら、瞬は彼に反論することもできていただろう。
しかし彼は沈黙を守り続けた。
まるで、真実を知らせることで瞬を傷付けたくはないのだ――とでもいうかのように。

それで瞬は、自分が本当に一人だけなのだということを知ってしまったのである。
ふいに、本当に突然、彼の言うことは事実なのだと、瞬は感じてしまったのだった。
もちろん瞬は、そんな自分を訝った。
まるで 絶望的なその事実を以前から信じたがっていたように、そうであることを ずっと望んででもいたかのように、彼の言葉を受け入れてしまう自分自身を。

それは、実に奇妙なことである。
にも関わらず、瞬の心は、彼の言葉を紛うことなき事実として受け入れてしまっていた。
まるで誰かに催眠術でもかけられて、自分の意思を操られているかのように。

瞬の理性が、瞬に激しく警鐘を鳴らしてくる。
そんなことがあるはずがない。
闇の声などに耳を傾けるな。
昨日まで おまえは幸せな人間だった。
そのおまえが、なぜ急に不幸な人間になるのだ――なることができるのだ。
冷静になって考えれば、妙なことではないか。
この闇は何か妙な力を使って、おまえの心を操っている。
だから目を覚ませ。

瞬の中で、闇の声に絡め取られていない心の一部が、懸命に瞬に訴えてくる。
その力に後押しされて、瞬は彼に反論しようとした。
が、喉が痛くて声が出ない。
いつのまにか、瞬の喉は重苦しい熱を持ち、その熱は瞬に声を発することを許さなかった。
これも彼のせいなのか――。
声を出すことができないのなら、せめて彼を睨みつけたいと、瞬は思った。
しかし、瞬の前にあるのはぼやけた薄闇ばかりで、その闇の中のどこに彼がいるのかもわからない。

だというのに、彼は瞬の頬に触れることはできるのだ。
触れながら、彼はひどく優しい声音で、瞬に囁いてきた。
「……泣かなくていい。私がいる。私だけはおまえの味方だ。私なら、おまえを守ってやることができる。私だけが、おまえを守ってやれる」
誰が泣いているのだと思った瞬間に、瞬は自分の頬が涙で濡れていることに気付いた。
瞬は確かに泣いていた。
だが、なぜ。
いったい何を悲しんで?
瞬にはわからない自分の涙の訳を、闇の声が瞬に教えてくれた。

「かわいそうな瞬。おまえは、あの醜悪な人間共を救うために、自分の命まで捨てようとしたのに、誰もおまえに報いてはくれなかった」
彼は何を言っているのだろう? ――と、瞬は疑ったのである。
彼が瞬に示してくる、瞬の悲しみの理由は、的外れもいいところのものだった。
それは、あまりにも的外れだ――そう思うのに、彼の優しく危険な同情の言葉のせいで、瞬の瞳からは丸い涙の粒がぽろぽろと零れ落ち続けていた。

「僕は……見返りなんか期待してなかった」
なのに、なぜ涙があふれてとまらないのか。
自分はあの時、本当は何かを期待して、命を投げ出そうとしていたのだろうか。
そして今、報われなかった自分を哀れんで泣いているのだろうか。
瞬はあの時の自分の心を、どうしても思い出せなかった。
今の自分の心もわからない。
瞬の不安を否定してくれたのは、瞬に涙を強いた闇その人だった。

「知っている。おまえはあの時、本当に自分以外の人間の生と幸福をしか望んでいなかった」
迷う瞬とは対照的に、彼の声音には逡巡がなく確信に満ちている。
そして瞬は、その言葉によって、心を安んじることができた。
やはりそうだったのだ――と。
“彼”は、瞬と敵対しているのではないにしても、瞬とはほぼ真逆の価値観と主張を持つ者である。
そんなものの言葉に安堵するというのもおかしな話だが、事実 瞬は彼の言葉によって“あの時”の自分の心を再び取り戻し、信じることができるようになっていた。

人間という存在は、結局はそういうものなのかもしれない。
一人では存在できず、自分以外の他者との関係によって生かされている。
人間すべてが死に絶えた世界にただ一人生き残り、
『僕の戦いは正義を行なうための戦いだった』
と呟いても、そこに正義は存在しないのだ。
自分以外の誰かに、
『そうだ。おまえの戦いは正義のための戦いだった』
と認めてもらうことによって初めて、そこに正義が出現する。
事実がどうであったのかどうかは、その際 大きな問題ではないのだ。

正義も邪悪も、強さも弱さも、優しさや冷酷のように人間の性質に関するものであれば なおさら、それらのものは一人では存在し得ない。
美しい愛も、優れた芸術も、そこに一人の人間が生きて存在するという事実さえも、誰かに認めてもらうことができなければ、それは無意味であり、無いも同然――否、『無い』のだ。
自らを認めてくれるのなら、“彼”が闇の心を持つ者でも構わない。
人はそう感じるようにできているのだ、おそらく。

「僕が死んでも、みんなが生き延びて、自分の生を全うして、そして幸せになってくれるなら、それでいいと、僕は思ってた。僕は戦うことしか知らない人間だから、そういう望みをしか持てなかった」
何かがほしい。何かになりたい――。
他の人間が苦もなく、そして際限なく抱くことのできる望みや欲。
だが、瞬は、そういった物事を考えたくても、考えが及ばなかった。
瞬が望んでもいいものは、世界の平和と安寧と仲間たちの無事。
いつもそれだけだったのだ。

「そうだな。おまえはいつも自分のことではなく、自分以外の者たちのことばかり考えていた。だから おまえはアンドロメダ座の聖闘士に選ばれたのだと言ってもいい」
だが、瞬と、犠牲の姫君アンドロメダとの間には決定的な違いがある。
アンドロメダ姫は、祖国を守るために彼女が命を捧げることを、彼女に命を救われるすべての人々に知られ認められていたが、瞬は、瞬が払う命という犠牲をすら、誰にも知られることはない――のだ。

「酷なことを言うようだが、あの時、おまえが本当に自分の命を捨てて 奴等を守っていたとしても、地上に真の平和が実現することはなかっただろう。我欲を満たすことと保身だけを考えている人間共が生き延びて、以前と同じように醜悪な世界を維持し続けるだけだ。おまえの犠牲を知って感謝する者がいたとしても、彼等は翌日には、おまえのことなど忘れてしまう。それが人間だ。人間と言う生き物は、そうしないと生きていけない。おまえの死に責任を感じ、おまえの命までを背負わされたら、自分が生きていくのが苦しくなることを、あの小ずるい卑怯者たちは知っているんだ」

アンドロメダ座の聖闘士の陽報を求めない心を 認めてくれる者の言葉だから、瞬は彼の言葉を否定することができなかった。
事実、人間というものは彼の言うような生き物であると、瞬は認めないわけにはいかなかったのである。

「僕のしようとしていることは無意味なの。僕の理想と夢は叶わないの」
「――」
瞬の切ない問いへの返事が、彼から与えられることはなかった。
“瞬”という人間の心を認めてくれる優しい闇は、おそらく嘘をつきたくないのだろう。

「答えて」
それでも、もう一度問うてみる。
闇の中から返ってきた答えは、
「かわいそうに」
という、永遠に報われることのない望みを抱く不幸な人間を哀れむ言葉だった。






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