「氷河……!」 帰還の予定は夜だったのだが、その日 氷河が城戸邸に帰ってきたのは、まだ太陽が中天にある頃だった。 朝からラウンジの窓の側に両肘をついて、城戸邸の庭から続く門を見詰め続けていた瞬が、突然何かに弾かれたように勢いよく部屋を飛び出ていく様を目の当たりにすることになった星矢と紫龍は、アテナの公式見解が正答だったことを認めないわけにはいかなくなってしまったのである。 昨日まで死の陰を帯びたように青ざめていた瞬の頬は、氷河の姿を認めた途端に、ばら色のそれに変わってしまっていた。 「ただいま」 「氷河、おかえりなさい! 疲れた? 大丈夫だった? ウプサラ氷河は復活したの !? 」 1週間振りに出会った氷河の胸の中に、瞬は、2メートルも離れたところから、文字通り飛び込んでいった。 氷河が聖闘士でなかったら――聖闘士であったにしても油断していたら――彼は瞬もろとも城戸邸のエントランスホールの床に 背中から倒れ込んでしまっていたかもしれない。 幸い(不運にも)彼には瞬を抱きとめるだけの力があったので、そんな楽しい体勢になることはできなかったが。 「ああ、万事順調。しかし、まさか、こんな仕事に駆り出されることになるとは思わなかった。アテナの聖闘士の仕事も様変わりしたもんだな」 それでも、瞬の髪と肩と、しがみついてくる腕の感触は楽しむことができる。 1週間振りに――氷河は 瞬の花のような香りに触れ、瞬は 氷河の雪のような匂いを確かめることができたのだった。 「氷河が解けそうっていうから、夏場の氷河を想像しちゃった。大変だよね。なのに僕じゃ何の力にもなれなくて――情けなくて……」 「そんなことはない。頑張れば頑張っただけ早く おまえのところに戻れることが約束されている仕事だったからな。これが済めば日本に帰っておまえと寝ることができるんだと自分を鼓舞しながら、ウプサラ氷河を凍らせてきた」 「やだ……」 あまり婉曲的とは言い難い氷河の言葉に、少しく顔をしかめた瞬は、だが、そんなことを言う氷河の傍らから離れようとしない。 氷河は瞬の髪に唇を埋めて、瞬にはわからぬように苦笑した。 「おまえは、俺のいない間、寂しくなかったのか」 いったい瞬はどういう答えを返してくるのかと思いながら、瞬に尋ねてみる。 瞬から返ってきた答えは、氷河が想定していたもの――つまり、体面を重んじる日本人としての答えでも、正直な恋人としての答えでもなかった。 それまで幸せそうに輝かせていた瞳を曇らせて、瞬が瞼を伏せる。 「毎晩、誰かが僕のとこに来てた……」 「なに?」 それがあらぬ誤解を生じかねない説明になっていることに気付いて、瞬はすぐに軽く首を横に振った。 「あ、夢だと思う。ただの。朝になって目を覚ますと、その人と何を話してたかも、僕は忘れちゃってたし。何か――すごく大事なことを話してたような気がするんだけど」 「大事なこと……とは」 「……楽しいことじゃなかった。戦うことの無意味とか、生きていることの無意味とか。僕、やっぱり一人で眠るの駄目みたい。よくないこと考えちゃう……」 自分が誰と何を話していたのかは 明瞭に憶えていない。 “あれ”がいつから自分の前に現われるようになったのかも、瞬は憶えていなかった。 瞬にわかっていることはただ、氷河と一緒にいさえすれば、あの重苦しい感覚は自分の許を訪れない――ということだけだった。 “あれ”は、一人でいる人間の心にしか感じ取れないものなのだ。 「楽しいことでなかったのなら、それは大事なことでもなかったんだろう。戦うことの意味や生きていることの意味ならとかく、無意味なんてものを考えてどうする。馬鹿なことだ」 瞬の悪い夢を、氷河があっさり否定する。 あの得体の知れない暗闇を、氷河があまりに簡単に否定するので、瞬はかえって不安になった。 「それは馬鹿なことなの? 氷河は、僕たちのしていることは無意味じゃないって思うの? 敵は次から次に引きもきらずにやってくるし、人はみんな弱くて、今の自分のことしか考えない卑怯者で、狭量な心しか持ってなくて――。だから、氷河がわざわざ解け出しそうな氷河を凍らせるために南米なんて遠いとこまで出掛けていかなきゃならなくなって、そして僕はあんな暗い夢を見ることになって――」 氷河に語る自分の言葉が愚痴めいた響きを帯びていることに気付き、瞬は自分がひどく卑小な人間であるように思えてきてしまったのである。 アテナの聖闘士として命を懸けて戦うことへの報いなど求めていないし、期待してもいない。 瞬は、ただ、その報いとして与えられたものが、一人だけの夜だったことに、やりきれなさを覚えないわけにはいかなかったのだ。 その事実に、孤独から解放された今になって、瞬は気付いた。 「おまえの戦いが無意味なら、俺の戦いも無意味なことになるな。おまえの生が無意味なら、俺の生も無意味だ」 「それは嫌。氷河が生きていることには意味があるよ。氷河が戦うことにだって、意味があるに決まってる」 瞬は、氷河に即答した。 自分のことでないのなら、自信を持ってそう思うことができ、そう言い切ることもできる。 「もちろん、そうだ」 そして、氷河は、瞬の考えを当然のごとくに受け入れ、認めてくれた。 たとえば今回の“仕事”。 氷河の力がなかったなら、パタゴニアは解け出した氷河によって地盤や地形に変化が生じ、春の訪れを待たずに大量にあふれだした水によって、住む場所や、最悪の場合には命を失う者も出ていたかもしれない。 彼等の不安が取り除かれ、彼等がこれまで通りの生活と命を維持できるようになったというのなら、氷河の為したことには大きな意味がある。 「そうだよねえ」 氷河の戦いと生には意味がある。 なによりも、それは、瞬という人間にとっては なくてはならないものだった。 その事実を確信して、瞬は安堵の息を洩らし、そして口許をほころばせた。 |