「ほら、見てみろ。みやげ」 氷河にしがみついていなくても自分を保っていられるところにまで、瞬の意思と心は回復していた。 そんな瞬の前で、氷河が その右の手を広げる。 「え?」 氷河が出掛けていったのは南米大陸の山岳地帯である。 半径50キロ圏内に町らしい町はなく、土産など購入できるような場所ではない――と、瞬は聞いていた。 氷河が瞬の前に差し出したものは、当然金で贖ってきたものではなく――それは、携帯電話についているカメラで撮った写真だった。 「携帯電話のカメラに800万画素なんて無駄に高性能な機能をつけて、グラードモバイルテクノロジーは何を考えているんだと思っていたんだが、“無駄に高性能”も こういう時には便利だな。100万画素程度の携帯カメラの写真とは比べものにならないほど鮮やかだ」 氷河が指し示した携帯電話の液晶ディスプレイには、小さな花の姿が映し出されていた。 「麓の方はもう春だったんだ。あの地方にしか自生していない種類の雪割草だそうだ」 雪割草――は、その名の通り、まだ雪の残っている頃、その雪を割るようにして花を咲かせる植物である。 「綺麗。ほんとに雪の中で咲いてる」 純白の雪の間に咲いている薄桃色の小さな花。 瞬は、その健気な姿に見入った。 その花は、おそらく昨年と同じ場所に昨年と同じように咲いているのだろう。 ただそれだけのことだというのに、瞬の胸には、不思議に熱い思いが生まれていた。 その花は、氷河が守り、氷河によって守られて、今年も咲くことのできた花なのだ。 「花のない星に住む者たちが、もし地球を訪れたなら、『こんなに美しいものが身のまわりにあふれているのに、喜びに酔いしれない地球人の気がしれない』と思うだろう」 「え?」 「――という言葉を思い出したんだ。この花を見付けた時」 ディスプレイに映る花の姿ではなく、瞬の瞳を見詰めながら、氷河が言う。 「誰の言葉? ほんとにそうだね」 瞬は、氷河が南米大陸から持ち帰ってきた土産の姿から目を離すことができなかった。 「僕たちの生きている世界は、美しいもので あふれてるんだ……」 そんな当たりまえのことを、なぜ忘れていられたのだろう――と思う。 美しいものがあふれている この世界で絶望に支配されるということは、ものを見る力を備えていない人間のすることである。 闇をしか見ようとしない人間のする愚行だった。 「まあ、どんな花より、おまえがいちばん綺麗だが」 「え」 「氷河の再生作業をしている間も、おまえのことばかり考えていた。仕事を終えて山を下りてきたところで この花を見たら、のんびり予定の飛行機なんか待っていられなくなって、一便早い奴に飛び乗って帰ってきたんだ。俺は、おまえが心配そうな顔をするから、どう考えてもアテナの聖闘士の仕事じゃない仕事を引き受けたんだからな。おまえのために、だ」 そう言って、氷河が瞬を抱きしめる。 「あ……」 抱きしめられた氷河の胸の中で、瞬は――そして、瞬も同じことを考えていたのである。 「僕もそうだったのかも……。僕のことじゃなく――僕は、氷河の戦いや命が無意味なはずがないって思いたかっただけだったのかも……」 自分の戦いや命ならば無意味でもいいのだ。 自分にとって自分の戦いや生が無意味でも、そう思わざるを得なくても、それらのもの――“瞬”の戦いや生――を、氷河が無意味とは思わずにいてくれるから。 その事実を知っているから。 “瞬”が生きて存在することは、氷河には意味がある。 “氷河”の戦いや彼が生きていることが、瞬には意味があるものであるように。 氷河が彼の生を生きて、彼の戦いを戦い続け、彼の夢を追う。 瞬はその事実によって、幸福になることができた。 瞬にとって、氷河の生と戦いは、そういう意味において、自分の生や戦いよりも重大な意味を持つものだった。 そんなふうに人と人が関わり合い、他者の生を認めることで――認め合うことで――、ものごとの意味や意義というものは生まれるものなのかもしれなかった。 だから、人は一人では生きていけないのだ。 人は、一人では生きていないことになる。 そして、だからこそ――瞬は氷河が自分の許に帰ってきてくれたことが嬉しいのだった。 「おかえりなさい、氷河」 自分を抱きしめている氷河の胸に、瞬はもう一度小さく呟いた。 |
■ 「花のない星に住む者たちが〜」 By Jean Iris Murdoch |