カミュは、氷河王子が幼い頃――まだ氷河王子のお母様がご存命だった頃、彼の美術教師を勤めたことがありました。
教師といっても、カミュには本業がありましたし、氷河王子は、母君に自分の描いた肖像画をプレゼントしたいがため、ほんのしばらくの間、彼に絵画の基本を習っただけでしたが。
カミュはその時、氷河王子に、
『人の姿をキャンバスに映し取ろうと思ったら、その時に画家が見るべきものはモデルの姿ではなく心根だ。モデルの心を捉え、その心にふさわしい表情を絵の中の人に持たせることができれば、デッサンが多少狂っていても、絵に向き合った者たちは『似ている』と感じるものなのだ』
と教えてくれました。

氷河王子の肖像画鑑賞の基本姿勢は、今でもその教えにのっとったものです。
宮廷画家カミュ仕込みのその鑑賞眼が、氷河王子に執拗に囁くのです。
『あの絵の姫君は稀有な存在。北の国の王子が愛する価値のある唯一の存在だ』と。
自分に絵の読み方を教えてくれたカミュならば、自分の心を察して力を貸してくれるだろうと、氷河王子は期待していました。
ところが、カミュの工房で氷河王子を出迎えてくれたのは、工房の主その人ではなく、彼の弟子の星矢と紫龍でした――彼等だけだったのです。

「あれえ、氷河。何しに来たんだ?」
工房の入り口に表れた氷河王子の姿に気付くと、星矢は怪訝そうに眉をひそめました。
マザコンで名高い氷河王子が ついに母君を越える女性に巡り合い、いよいよ花嫁を迎えることになったらしいという噂は、この工房にも届いていました。
今頃はお城で未来の花嫁のご機嫌取りに勤めているものと思っていた氷河王子が、突然こんなところに現れたのですから、星矢が驚くのは無理からぬことだったでしょう。

その上、恋に浮かれているはずの氷河王子がいつにも増して不機嫌そうな声で、
「カミュはどこだ!」
と怒鳴りつけてくるのですから、星矢や紫龍が氷河王子の突然の訪問を不審に思ったのは当然のことです。
彼等にできたことは、とりあえず事実を氷河王子に伝えることだけでしたが。
「“気になるリンゴ丸ごとパイ”が食べたくなったとか言って、カミュは昨日リンゴの国に出掛けていった」
「なんだとっ!」

実は、カミュはご当地名産品マニアなのです。
各国から降るように舞い込んでくる肖像画制作の仕事を、彼は、その時食べたいものがある国の仕事かどうかで決めるのが常でした。
『筆と絵の具の魔術師』という異名を取り、等身大の全身肖像画ですら2日で仕上げることのできるカミュが、毎回1作につき1ヶ月の制作期間を依頼主に求めるのは、彼の肖像画制作期間にはご当地名産品購入・発掘のための時間が加味されているからでした。
そのカミュが昨日リンゴの国に出掛けていったというのなら、彼がこの工房に戻ってくるのは今から1ヶ月後だということ。
カミュの不在を聞いて、氷河王子は大層落胆することになりました。
これでは、彼の求める情報が手に入りませんからね。

「先日王宮に収められた絵のモデルが何者か、おまえたちは知らないか」
それでも、駄目でもともとの気持ちで、氷河王子は星矢に尋ねてみました。
星矢からは、
「え? モデルはバナナの国のお姫様なんだろ。先月カミュはバナナの国に行ってたし、俺たちに“南方バナナ見いつけた”とかいう土産を買ってきてくれたぜ?」
という答えが返ってきます。
もちろんそれは氷河王子が求める情報ではありませんでしたが、なかなか有益な情報でもありました。

「では、あの絵のモデルがバナナの国の人間だというのは確かなことなんだな」
「おまえは何を言ってるんだ? あの絵のモデルは今、こっちに来てるんじゃなかったのか?」
工房の奥で青い絵の具を作るために淡口青金石ラピスラズリを砕く仕事をしていた紫龍が、ちょうどその作業が終わったので、星矢と氷河王子のいる方に歩み寄ってきます。
氷河王子は、ふんと鼻を鳴らして、彼があの偽者を追い払ったことを彼に告げました。

「あの女は、純金で作ったリンゴと瑪瑙で作ったメロンと、ダイヤのマトリョーシカとウォッカを100ダースとキャビアの缶詰1年分をプレゼントして、昨日バナナの国に帰ってもらった」
「おきさきにするって呼びつけておいて、もう追い返しちまったのか? なんでだよ。相手のお姫様だって無駄足を踏まされたら、いい気分じゃいられないだろ」
「ほくほく顔で帰っていったぞ。ウォッカとキャビアがなくなったら、また送ってくれと言われた」

遠い国から妻にするために呼び寄せた姫君をすぐに追い返してしまう氷河王子も氷河王子なら、金や宝石やキャビアを山ほど贈られたからといって、喜んで帰国してしまう姫君も姫君です。
いったい王族同士の結婚というものは、そんなに簡単になかったことにできるものなのかと、星矢は正直呆れてしまいました。
大袈裟な歓迎パレードまで催しておいて、これでは大山鳴動してネズミ一匹出てこなかったことになります。
とはいえ、そういう事態を招く元凶となった氷河王子にも、氷河王子なりの事情と都合があったのですけれどね。

「やってきた女が、カミュが描いた肖像画の姫とは似ても似つかない女だったんだ。筆と絵の具の魔術師と言われてるカミュが、まさか絵を描き損じたとも思えんし、カミュは賄賂で実物より美しい絵を描くようなことをする男でもないだろう。俺には、なぜこんなことになったのか、そのあたりのことがどうしても納得できないんだ」
「カミュが賄賂をもらって そんな器用な真似ができる画家だったら、この工房ももう少し小綺麗になっているだろうさ」

氷河王子の事情と都合はともかく、氷河王子によるカミュ人物評には、星矢も紫龍も同感でした。
1万デナリウスの報酬を提示してきた王室の仕事よりも、メロンカレーポッキーを売っている地方の貧乏子爵の500デナリウスの仕事を選ぶカミュの工房は、彼の名声の高さにも関わらず、大変に狭く質素なものだったのです。
絵の具やキャンバスが余裕なく雑然と並んでいる工房内を見回して、星矢と紫龍は思わず肩をすくめてしまいました。

が、カミュのあまり一般的でない欲望の方向性を嘆いたところで、事態が好転するわけでもありません。
そんなことを考えるのも空しいと思ったのか、星矢は気を取り直して氷河王子の方に向き直りました。
「もしかしたら、そのウォッカをもらって帰っていったお姫様に、姉か妹でもいるんじゃないのか」
「それは考えられるな。氷河のように大人しく絵のモデルをしているのが苦手な姫君が、代理のモデルを立てたとか」
紫龍はそれを冗談のつもりで言ったのですが、氷河王子はかなり本気で、それは大いにあり得ることだと考えたのです。
つまり、氷河王子は、それくらい絵のモデルを務める作業が嫌いだったのでした。

いずれにしても、氷河王子の求める人がバナナの国にいることは確実のようでした。
氷河王子は、有益な情報をもたらしてくれた星矢と紫龍に重々しく頷き返しました。
「俺は今からバナナの国に行くつもりだ。あの絵のモデルを探しに。もしバナナの国が隠し立てをするようだったら、戦の一つもふっかけてやる……!」
紫龍は氷河王子の暴言を、それこそ冗談だと思いたかったのですが、氷河王子の目は全く笑っていません。
氷河王子は今、恋する男の無思慮無分別を見事なまでに鮮やかに体現していました。

「おまえ、落ち着け。武力で脅して姫君を出せなんて要求したら、その絵の姫君だって、喜んでおまえのところに来てはくれないだろう。ここは穏便に、大人の対応をだな――」
「俺はあの絵の姫と結婚するんだ! あの姫しかいない!」
「……」
恋する男の無思慮無分別は医者にもパラトゥンカの湯にも治せないというのが通説。
そして、その通説は事実のようでした。
紫龍と星矢は、まるで駄々っ子のような氷河王子の様子にすっかり呆れてしまったのです。
それと同時に、『結婚なんて、女をひとり確保するのがやっとのモテない男がする愚行だ』と豪語していた氷河王子の豹変振りに、彼等は大層驚くことになりました。

「おまえ、本気なのか? 確か、おまえは、マーマみたいに綺麗で、マーマみたいに優しくて、マーマみたいにケン玉の上手いお姫様が理想なんじゃなかったっけ?」
「ケン玉じゃない、ペン回しだ。俺はマーマの鮮やかな技を見るたび感動して――いや、だが、あの姫君ならそんなものはできなくてもいい!」
「おっ、まじで本気なんだ」

恋する王子様は恋のために前後左右が見えなくなっているようでしたが、自分の恋を成就させるために多少の譲歩をすることも学びつつあるようでした。
どう見ても、氷河王子はこの恋に本気です。
北の国の王子の婚姻が、北の国の平和と繁栄に繋がる重大事であることをよく承知していた星矢と紫龍は、(氷河王子の世話を押しつけられることになるお姫様には少々申し訳ないような気もしましたが)氷河王子の恋を応援する気になり始めていました。
――ところが。






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