馬のいななきが星矢たちの耳に届けられたのは、氷河王子がこの工房にやってきて かなり時間が経ってからのことでした。
ほんの一時いっときカミュの工房に寄り、カミュから得られるだけの情報を得たら、そのままバナナの国に向かうつもりでいた氷河王子の決意を察していたのか、そのいななきは、こころなしか氷河王子に騎乗を促すような響きを含んでいました。

「おい、表で馬が騒いでるぞ。おまえ、これからモデルの姫君を探しに行くんだろ。こんなとこでぐずぐずしてていいのか」
「あ、いや。この子が何か知っているような気がするんだが」
氷河王子に探るような視線を向けられた瞬が びくりと身体を震わせて、仲間たちの陰に隠れるような素振りを見せます。
氷河王子はあまり目付きのいい王子様ではありませんでしたし――もとい、対峙する人間に 大変厳しい印象を与える眼差しの持ち主でしたので――氷河王子とはこれが初対面の瞬が、その眼差しに怯えるのも致し方のないことだったかもしれません。

「なぜそう思うんだ。瞬はまだこの工房に来たばかりで、王宮に出す絵に触らせてもらえるほど修行を積んではいないし、カミュと一緒にバナナの国の王宮にあがったようでもなさそうだ。そうなんだろう、瞬?」
紫龍の言葉に、瞬がこくこく頷きます。
瞬は、氷河王子の真っ青な瞳に凝視されることに怯えているようではありましたが、嘘を言っているようには見えませんでした。
まだ短い時間でしたけれど、瞬と共に同じ工房で修行をしている星矢と紫龍には、瞬が嘘をつくような人間ではないことがわかっていました。
だいいち、こんなことで嘘をついて、瞬が得をすることがあるとも思えません。
星矢と紫龍は、もちろん瞬の申告をそのまま信じました。

けれど、氷河王子は――氷河王子とて、瞬が嘘をついているのだと考えたわけではありませんでしたが――彼は瞬に何か引っかかるものを感じ、その“感じ”を容易に振り払うことができなかったのです。
根拠などありません。
それは、恋する者の直感でした。
そして、氷河王子はどうしても、今このまま瞬の側から離れる気にはなれなかったのです。

「考えが変わった。俺はバナナの国に行くのはやめて、ここでカミュの帰りを待つ」
青い瞳でじっと瞬を見詰めたまま、氷河王子はそう宣言しました。
カミュの帰りを待つのなら、それは北の国の王宮ででもできるだろうにと、星矢と紫龍は思いました。
思いはしたのですが、一度こうと決めたら意地でも自分の意思を貫く氷河王子の性格を知っている二人は、王子に翻意を促すことはしませんでした。
そんなことをしても、徒労に終わることがわかっていたからです。

そういうわけで、氷河王子を知らない瞬だけが、彼の言葉に慌てることになりました。
「ここで――って、王子様がこんな粗末なところに……。ここには、王子様が眠れるような ふかふかのベッドなんてないのに」
この工房でのいちばんの新入りが、あまりに正直に、北の国でいちばんの――つまり、世界でいちばんの――肖像画家の工房を“粗末”呼ばわりするのに、星矢と紫龍は苦笑を禁じ得ませんでした。
なので、彼等は、顔に出して苦笑いをしました。
ですが、この工房が壮麗でも華麗でもないのは、それだけカミュが清潔な仕事をしているということでもありました。
星矢と紫龍は この“粗末な”工房を恥と思っているわけではなく――、だからこそ彼等は堂々と笑うこともできたのです。

氷河王子がそんな二人には目もくれず、瞬にきっぱり言い切ります。
「戦時訓練で戦地に出た時には、地べたに寝たこともある。俺はどこででも寝られる」
途端に、瞬は沈痛な表情になりました。
「僕、戦は嫌いです。戦なんて、みんなを苦しめるだけの野蛮な行為だ。バナナの国にいた時に聞いたことがあります。昔 この国とリンゴの国やバナナの国で戦があった時には、バナナの木やリンゴの木が全部砲弾で打ち倒されて、みんなが悲しい思いをしたって」

北の国と他国の間で戦があったのは、もう100年も前の話。
それでなくても、戦を知らない世代の人間である瞬が、一国の王子に向かって政治向きの話をするのは、ある意味 不遜で不敬なことです。
けれど、氷河王子は、仮にも一国の王子に対して嫌なものを嫌とはっきり言える瞬に、むしろ好感を抱くことになったのです。

「戦を起こすことの愚は俺も理解している。戦は何があっても避けるべきだ」
「そ……そうですよね!」
氷河王子がきっぱりと断言するのを聞いて、瞬がほっとしたように、そして嬉しそうに微笑します。
氷河王子は、そんな瞬に重々しく頷きました。
「もちろん、そうに決まっている」

戦でいちばん苦しむのは、王子や軍人ではなく、戦など望んでいない庶民です。
氷河王子の断言は、瞬にはとても嬉しいことでした。
もっとも、そんな瞬と氷河王子の横で、つい先程 バナナの国に戦を仕掛けてやるとか何とか息巻いていたのは誰だったのかと、星矢はあきれてしまっていたのですが。
瞬が氷河王子のその放言を聞いていなかったのは、瞬にとっても氷河王子にとっても幸運なことだったかもしれません。
氷河王子の確約は、瞬の笑顔を更に明るいものにしました。

「王子様はきっと立派な王様になってくれますね。僕、貧しいのは平気なんです。でも、自分の望みを叶えるために他人や他国の人を傷付けるなんて、愚かなことだと思う。戦なんて、しないのがいちばんです」
「全くだ。瞬は本当に賢いな。今すぐこの国の王になれる」
「僕はそんなものにはなりたくな――いえ、氷河王子様っていう立派なお世継ぎがいるんですから」

いつのまにか二人の間には妙に親密な空気が漂い始めていました。
瞬はもともと人なつこく人好きのする少年でしたが、氷河王子はそういう人間ではありません。
むしろ、瞬が戦を嫌いだと言うよりもはっきりと、人の好き嫌いを表に出すタイプ。
その二人の間が親密になっているということは、つまり、氷河王子が瞬に対して好意を抱き、積極的に親しくなろうとしているから――ということになります。
氷河王子との付き合いが長い星矢と紫龍には、それがわかっていました。
非常に珍しいことだとも、彼等は思っていたのです。

「氷河でいい。俺はそんな立派な世継ぎでもないし」
それは決して謙遜ではなく、どちらかといえば事実だったのですが、今日 氷河王子と知り合ったばかりの瞬には そんなことはわかりません。
瞬は真面目に首を横に振りました。
「そんなことありません。氷河王子様はきっと立派な王様になります。僕、いつか氷河王子様を描けるようになりたいな」
「それは楽しみだ」

北の国では、王族の絵は宮廷画家にならないと描けないことになっています。
そして、北の国の宮廷画家の定員は4人。
今現在はカミュともう一人がいるだけ。
瞬の望みは素朴なものでしたが、実は大変大きな望みでもありました。
ですが、氷河王子は、瞬が自分の肖像を描いてくれるというのなら、丸一日大人しく瞬の前でポーズをつけてやっていてもいいと思ったのです。
それくらい――氷河王子は、南の国からやってきた女の子のような顔をした画家の卵に強い好意を抱いてしまっていたのです。
瞬は、今日初めて出会ったばかりの外国人だというのに。
それはとても珍しいことで、とても奇妙なことでもありました。
少なくとも星矢と紫龍はそう感じていました。

ともあれ、そんなこんなで、“北の国の立派なお世継ぎ”は王子様の務め(結婚)をさぼって、カミュの工房で寝起きすることになりました。
これまでにも氷河がカミュの工房に来たことは何度もありましたが、それは大抵はカミュの仕事を見物したり冷やかしたり、星矢や紫龍と喧嘩じみた――もとい、気のおけないお喋りをするためでした。
王子様というのは、王様と違って、結構 暇を持て余しているものなのです。
北の国は大きな国で、しっかりした行政機構が出来あがっていましたし、今は戦をしているわけでもありませんでしたからね。

そんな氷河王子が、何をとち狂ったのか、突然画家の工房で瞬の手伝い――ただの新米見習い画家の手伝い――を始めたのです。
水汲み、絵の具の材料になる植物や鉱物の採取、更には絵の具作りにキャンバス作りまで。
そのまめなことといったら、大して国に貢献しているわけでもないのに いつもやたらと偉そうに ふんぞり返っていた氷河王子と同じ人間のすることとは思えないほどの勤勉さ。
その勤勉の原因が、知り合ったばかりの新米見習い画家――というのですから、星矢と紫龍が氷河王子の態度に不審感を抱くことになったのは、言うまでもないことです。

「どう見ても、氷河の奴、瞬にイカれてるとしか思えないんだが。肖像画のお姫様なんかどうでもよくなってないか」
「瞬はいい子だが男だし、ほんの数日前に会ったばかりの相手なんだぞ。イカれるには早すぎないか」
慎重を期し 誤断を避けるため――というより、そうであってほしいという希望的観測に基づいて、紫龍は星矢にそう答えました。
ですが、そんな紫龍にも、氷河王子が肖像画のお姫様のことをすっかり忘れてしまっているように見えることは否定できなかったのです。

「絵の中の美女より、目の前の可愛い子ちゃんだろ。あの浮気王子が!」
と、そんなふうに、最初のうちは呆れ軽蔑するように氷河王子に向けられていた星矢たちの眼差しは、日を追うごとに不安の色を濃くすることになりました。
氷河王子が肖像画の姫君を忘れることには何の問題もなかったのですが、氷河王子があの絵の姫君に関して神に誓った誓いを忘れることは、北の国にとって非常に危ういことでしたから。
星矢たちのそんな懸念に、氷河王子とて気付いていないわけではなかったのですけれど――。

実は、他の誰よりも氷河王子自身が、自分の気持ちがよくわかっていなかったのです。
なぜこんなにも急激に、自分の心が瞬に傾いていくのか。
ですが、氷河王子のその気持ちは、あの肖像画を初めて見た時同様、どうにも抑え難いものだったのです。






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