そんなある日のことでした。
星矢たちは絵の具の材料になる鉱石採取のために、工房の北方にある採掘場に出掛けることになりました。
いつもなら、ノミやツルハシやら重い荷物を抱えての山登りになるのですが、今回はそれらの荷物をすべて氷河王子の馬が背負ってくれましたので、カミュの弟子たちはハイキング気分。
身軽な分、緊張感を欠いていたのがいけなかったのかもしれません。

重い荷物を運んでくれた馬を水を飲ませるために川岸に繋ぎ、星矢たちが切り立った岩山に取りついて、いつもより元気に岩を削り始めて さほどの時間が経たないうちに、石英のように剥がれやすい大きな岩の塊りが岩壁から落下。
その石塊は、まだ岩の判別方法がわからないので岸壁の下で仲間たちの仕事振りを見守っていた瞬に向かって一直線。
「瞬っ、危ないっ!」

突然の出来事に驚き足がすくんでしまった瞬を庇った氷河王子は、砕けた岩の塊りを肩と足に受け、弾みでその場に倒れ込むことになりました。
「氷河! 氷河っ!」
瞬の悲鳴が響くのと、取りついていた岩山から星矢たちが飛び降りるのが ほぼ同時。
取り乱している瞬に、場慣れしている彼等は慌てず騒がす、そして素早く、適切な対応を開始しました。
「動かすな! 俺と紫龍とで馬を引いてくるから、おまえ、氷河についてろ! 頭を打ってるかもしれないから動かすなよ!」
「う……うん……」
川の方に向かってかけていく仲間たちを見送ると、瞬はすぐに氷河王子の側に駆け寄って、崩れ落ちるように彼の脇に両膝をつきました。

氷河王子は幸い意識ははっきりしているようでしたが、一人では起き上がることができないらしく――その上、飛び散った岩の破片が氷河王子の綺麗な顔に幾つもの傷をつけていて、その姿を見た途端、瞬は泣き出してしまいたい気持ちになってしまったのです。
「ど……どうして僕なんかのために――」
まるで自分の方が大怪我をしたように つらそうな瞬の顔を見た氷河王子が、『これは降って湧いたようなチャンス!』と思ったことは、瞬には内緒です。
氷河王子は、わざと力無い声を作って、瞬に告げました。

「目の前でおまえが危険な目に合いかけていたら、俺がおまえを庇うのは当然だろう」
「氷河……」
氷河王子はもちろん、それが瞬だったから自分は命の危険を顧みずに庇ったのだと、瞬に知らせたつもりでした。
そう言えば、瞬の心は自分の方に向いてくれるのではないかと期待して。

ところが瞬は、氷河王子は危険な目に合いかけた誰に対してもそう行動するのだと思いました。
それが誰でも――高貴なお姫様に対しても、一介の孤児に対しても――氷河王子はそんなふうに優しい王子様なのだと勘違いしてしまったのです。
ですが、だからこそ瞬の心は、氷河王子の目論み通り、岩山を転がり落ちる丸いキャンディのように氷河王子の胸の中に転がり落ちていってしまったのです。

感動のあまり瞬の瞳からは大粒の涙がぽろぽろと零れ、それらは氷河王子の瞼や頬を濡らしました。
温かい涙――。
氷河王子がそんなものに触れたのは十数年振りのこと。
その温かさに感動したのは、瞬よりも むしろ氷河王子の方でした。

「瞬、俺にキスしてくれないか」
「え……?」
「瞬が怪我をせずに済んで嬉しい。俺のために泣いているのが可愛い。キスしたいのに身体を起こせないのが悔しいんだ」
「あの……」
こんな時に、氷河王子は突然 何を言い出したのでしょう。
瞬はもちろん、氷河王子のその言葉にとても驚きました。
普通の怪我人は、そんなことを言ったりしませんからね。

でも、氷河王子は普通の怪我人ではありません。
氷河王子は、恋する怪我人だったのです。
瞬の戸惑う様子を見ると、氷河王子はわざと顔をしかめ、更に瞬に言い募りました。
「かなり痛むんだ。おまえにキスしてもらえたら、この痛みにも耐えられると思う。あ、もちろん唇にだぞ。頬はあちこち切れているようだからな」

自分を庇って怪我をした王子様が、痛みに耐えながらそれを求めてくるのです。
瞬には、氷河王子が望んでいることを叶えずにいることはできませんでした。
恐る恐る身体を屈め、瞬は氷河王子の希望の場所にそっと唇で触れることをしたのです。
まあ、その感触の、こそばゆくも気持ちのいいことといったら!
氷河王子の痛みを感じる神経はすっかり麻痺してしまいました。

氷河王子は、できればそのまま瞬の身体を抱き寄せ抱きしめて、可愛らしいキスのお礼に、もっとずっと濃厚なキスを瞬に返したいところだったのですが、触れるだけのキスに瞬があんまり恥ずかしそうにしているので、氷河王子はそうしたいという自身の欲求を必死に抑えました。
初恋も知らないような瞬に あまり急激に接近すると、乱暴ないじめっ子しか知らない子猫のように、瞬が怯えてしまうことがわかっていましたから。
ここは 優しく優しく、ゆっくりそっと近付かなければならないのです。
それが結局はいちばんの近道というもの。

「ありがとう、瞬」
氷河が嬉しそうに微笑んで礼を言うと、瞬は頬を真っ赤に染めて、小さく首を横に振ったのでした。






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