幸い氷河王子の怪我は軽い捻挫と打撲だけで済み、一日大人しくしていたら翌日にはすっかり元通りになりました。
本当は一日も静養している必要はなかったのですが、あんなに盛大に瞬に感動の涙を流してもらったあとで、『実は全然大した怪我じゃなかったんだ』なんて、氷河王子としては ちょっと言い出しにくかったのです。

瞬は氷河王子につききりで看病し、絵のモデルに限らずじっとしているのが苦手なはずの氷河王子も、瞬に至れり尽くせりの世話をしてもらってベッドの上でご満悦。
いかにも助平な目で瞬を見詰めている氷河王子の態度を苦々しく思いながら、星矢も氷河王子の怪我が軽傷だったことに ほっと一安心したのです。
元凶は氷河王子自身であったにしても、家出先で一国の王子に大怪我をされたのでは、カミュの立場が悪くなりますからね。

けれど、そんな星矢とは対照的に紫龍はひどく浮かぬ顔でした。
「なんだよ。氷河の怪我は大したことなかったのに、その顔は」
紫龍が浮かぬ顔をしているのには、もちろん それ相応の理由がありました。
そして、それは、北の国の存続に関わる大きな問題でもあったのです。
「図々しくて我儘で横柄で一国の王子としての自覚も全くない最低王子といえど、氷河も人間、いつ何が起こって あっさり死んでしまわないとも限らない――という事実を認識したんだ」

「え? そりゃ、怪我したり死んだりするくらいのことは、氷河でも普通の人間並みにできるだろうけど」
そう言いながら星矢は、実は自分の発言が正しいのかどうか、あまり自信を持てずにいました。
怪我くらいならともかく、氷河王子が本当に普通の人間のように ころっと死んだりなどできるのでしょうか。
そう言ったのは彼自身であったにも関わらず、星矢は自分の言葉をすんなり受け入れることができなかったのです。
氷河王子には、『殺されても死なない(図太い)男』というイメージがありましたから。

氷河王子のイメージということに関してなら、紫龍が抱いているイメージも、実は星矢のそれと大きな違いはありませんでした。
けれど、紫龍は今、イメージではなく現実の話をしていたのです。
「そうだ。氷河といえど不死身じゃないんだ。早く何とかしないとまずいぞ。今氷河に死なれたら、この国は滅びることになってしまう」
「なんでだよ? 氷河が死ねば神々への誓いはなかったことになるだろ。あ、それでいきゃ、氷河が永遠に誰とも結婚しないでいれば、あの誓いを破ったことにはならないのか」

そうなれば、我儘な氷河王子を押しつけられて どこぞの姫君が苦労することもありませんし、傍迷惑な氷河王子の遺伝子を受け継いだ とんでもない跡継ぎが生まれて、氷河王子以上にこの国を危地に追い込む可能性も消えることになります。
星矢は、自分が最善の問題解決策を思いついたような気になって、にわかに表情を明るくしました。
ですが、今 北の国が直面している危機は、そんなに簡単に解決するようなものではなかったのです。

「氷河が生きている間はな。だが、氷河が死んだ時に氷河が肖像画のモデルと結婚していなかったら、その時点で氷河の立てた誓いは成就されなかったことになる。氷河の死と共に、この北の国は滅亡することになるだろう」
紫龍の言葉に、星矢は真っ青。
確かに、彼の言うことは正しい解釈、正鵠を射たものでした。
「そ……それって、滅茶苦茶やばいじゃん! 氷河が生きてるうちに早く何とかしなきゃ!」
「そうだ、氷河が生きているうちに、氷河は肖像画のモデルと結婚していなければならないんだ。……が」

氷河王子の方に視線を巡らせた紫龍は、深くて長い溜め息を洩らさずにはいられなかったのです。
歩けるようになった氷河王子は、恋する男のまめまめしさで、今日も嬉しそうに瞬の手伝いをしています。
氷河王子は、今は、瞬のために何かをするということに生き甲斐を見い出しているようでした。
国に尽くそうなどという王子らしい自覚を全く持っていなかった氷河王子が、さもしい下心があるにしても、自分以外の人間のために働くことを覚えたのはとても良いこと――だったでしょう。
場合が場合でさえなかったら。

「どーすんだよ! 氷河は今はもうすっかり瞬に夢中だぞ。肖像画の姫君のことなんて、忘却の彼方だ」
星矢の言う通りでした。
氷河王子の瞳は瞬への恋に燃えていました。
その瞳の奥に怪しげな恋の欲望の影が ちらついていることも、星矢たちにははっきりと見てとることができました。
(念のために言っておきますが、瞬は歴とした男の子ですよ)

「氷河は、瞬を押し倒すことはできても、瞬と結婚することはできない。いずれにしても、このままでは北の国は終わりということだ」
「なんで氷河は、いつもいつも面倒な相手にばっかり惚れるんだよ!」
星矢の悲鳴混じりの怒声は至極尤も、実に全く正当なものでした。






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