“気になるリンゴまるごとパイ”をお土産にカミュが北の国に帰ってきたのは、星矢たちが故国に迫る危機に気付いてから2日が経った ある日の午後のことでした。
彼の帰国を待ちかねていた星矢と紫龍から事の経緯を知らされたカミュは、
「なんと、そんなことになっていたのか!」
と、驚いている割りに緊迫感のない声を、狭い工房の中に響かせました。
それから10秒間ほど何やら考え込む素振りを見せてから、彼は、やっぱり あまり深刻さのない声で弟子たちに命じたのです。
「氷河を呼べ。本当のことを知らせておいた方がよさそうだ」

それが当然の権利と言いたげな様子で瞬の肩を抱いた氷河王子が 恩師の前に姿を現したのは、更にその5分後。
カミュは、そんな二人を見ても、割れ眉をひそめさえしませんでした。
それどころか、
「これは一度描いておきたい組合わせだな」
なんて、星矢と紫龍の心配顔をよそに、機嫌よさそうな声で呟きさえしたのです。

ともかく、そんなふうに呑気この上ないカミュの登場によって、事態は急転直下の展開を見せることになりました。
誰に何を言われても瞬は離さないと言わんばかりの顔をした氷河王子に向かって、カミュは衝撃の事実を告げたのです。
「先月王室に提出したあの肖像画のことだが、実はあの絵は おまえの母親が嫁ぐ前の肖像画を写し取ったものなんだ。マザコンのおまえなら、それで一発でバナナの国の王女に惚れ込むことになるだろうという大臣たちの依頼で描きあげた。もちろん、それとわからぬように、今ふうのドレスを着せたり、髪型を少々変えたりはしたが、あれがおまえの母の若い頃の絵であることに違いはない」

「な……なにい !? 」
カミュの告白を聞いた氷河王子は、もちろん大変驚きました。
それは星矢と紫龍も同様です。
ただひとり瞬だけが、氷河王子の横で困ったように瞼を伏せていました。
「たった一枚だけバナナの国に残っていた前王妃の肖像画は、だが、手に持っている花束を見詰めている構図のもので、目が伏せられていたんだ。見合い用の肖像画で目が描かれていないのでは役に立たないから、元絵よりも少し顔を上向きにし、目だけは瞬をモデルにして描いた」
「あれが……マーマの絵――」
「瞳の美しさで、私は、瞬以上の人間にはお目にかかったことがなかったからな。おまえの母親の目の色は青だったと聞いていたので、色はその色にしたが」

「つ……つまり、問題の絵のモデルは二人いたということですか。氷河の母君と瞬と」
驚きのあまり口がきけなくなっているらしい氷河王子の代わりに、紫龍がカミュに確認を入れます。
カミュはおもむろに頷きました。
「その通りだ。我ながら、あれは良い出来の絵だったと思っている」
「……」
氷河王子に一瞬で恋の感情を植えつけた あの絵は、では、姿形は氷河王子の最愛の母君、そしてその心は――目は心の鏡と言いますから――瞬を描いたものだったのです。
その事実を知らされた氷河王子の驚きは、時を経ずして歓喜と安堵の気持ちに変化していきました。

あの絵が母君を描いたものと気付かなかったのは、文字通り肖像画の主眼といえる瞳が違っていたから。
外見は亡き母君に似ていないこともなかったエリス姫と 肖像画の姫の印象が全く違うと感じたのも、瞳が違っていたから。
そして、その瞳は、氷河王子が 今熱烈に恋している瞬のものだったのです。

カミュの説明を聞いて、氷河王子は深い謎が解けたような気分を味わうことになりました。
なぜこんなにも突然、そしてこんなにも急激に、自分は瞬に恋をしてしまったのか、氷河王子は我が事ながら、ずっと不思議に思っていたのです。
ですが、それは不思議でも謎でもなく、とても自然なことだったのです。
氷河王子は、瞬に出会う前から、瞬に恋していたのですから。

「なぜ、おまえはそれを俺に言わなかったんだ」
氷河王子の声音は、決して瞬を責めるものではありませんでした。
愛する瞬を責めるなんて、今の氷河王子にできることではありませんでしたからね。

「僕が言っていいことなのかどうか、わからなくて――」
そして、瞬が沈黙を守っていたのは、新米とはいえカミュの弟子として当然のことだったでしょう。『これは他の画家の描いた前王妃の肖像画の二次創作である』と、描き手であるカミュが明言していないことを、瞬があれこれ勝手に言ってしまったら、へたをするとカミュの絵が盗作の汚名を着せられることにもなりかねません。
カミュがその事実を氷河王子に告げることによって初めて、瞬は本当のことを氷河王子に知らせることができるようになったのです。

「俺は惚れるべくして瞬に惚れたというわけだ。俺の目は確かだったんだな」
「青二才が何を言う。私の腕が確かなのだ」
氷河王子とカミュはそれぞれに自分の為したことに非常に満足げ。
ですが、星矢と紫龍はそうはいきません。
氷河王子の恋の謎が解け、カミュの画家としての腕前が実証されたからといって、北の国が直面している危機が回避されたわけではないのです。

「氷河、悦に入るのは結構だが、問題は何ひとつ解決していないんだぞ! おまえは二人のモデルのどちらとも結婚できないんだから」
問題はそこにありました。
氷河王子が神々に誓ったのは、『恋の成就』ではなく『結婚の実行』だったのです。
あの絵のモデルが、今は亡き氷河王子の母君と瞬――となったら、氷河王子が立てた神々への誓いはそもそも実行不可能なものだったということになってしまうではありませんか。

破滅への序曲がはっきりと聞こえてきたせいで頬から血の気が失せてしまった星矢や紫龍とは対照的に、けれど、氷河王子は呑気な顔。
至って涼しげな声音で、氷河王子は紫龍たちに言いました。
「なぜだ? 瞬は生きている」
「なぜだ……って、そりゃ確かに瞬は生きてるけど、でも瞬は――」
もう一度言っておきますが、瞬は男の子です。
けれど、そんなことは、氷河王子には さほど大きな障害では――もとい、全く気にかける必要のないことだったのです。

「国の存亡がかかっているとなればだ。俺は、相手が男だろうが何だろうが喜んで結婚するぞ。俺はこの国の行く末を託された王子だ。責任というものがある。責任をとって瞬と結婚する。永遠に瞬以外の人間は愛さない」
氷河王子はなぜかとても嬉しそうに、こんな時にだけ王子様然として、そう断言しました。
本当に責任感のある王子様なら、あんな軽率な誓いは立てないだろうと、星矢たちは思ったのですけれどね。

「いや……まあ、おまえがそれでいいなら、それは俺たちが口出しできるようなことじゃないけど……」
北の国が滅びないようにするには、確かに他に方法はありません。
自信満々の氷河王子に気弱なコメントをつけながら、本当にそれでいいのかと、星矢は首をかしげることになってしまったのです。
星矢が首をかしげたところで、氷河王子が自らの決定を覆すはずもありませんでしたけれど。

「瞬、いいな」
「氷河……でも……」
「おまえが俺と結婚してくれないと、この国が滅びてしまうんだ。おまえが俺を受け入れてくれるかどうか、おまえの心ひとつに この国の命運がかかっている」
「あの、でも、僕は――」
しつこく再三言いますが、瞬は男の子です。
その上、立派な家の出でもありませんでしたし、政治のことも宮廷でのマナーも知りません。
そんな人間が王子様のおきさき様になって、いったい何ができるというのでしょう。
瞬がためらうのは当然のことでした。

ですが、氷河王子はそうは考えていなかったのです。
大事なことは、自分が瞬を好きで いつも瞬と一緒にいたいと思っていることと、瞬が自分を好きで いつも一緒にいたいと思ってくれているかどうかということだけ。
ある一面から見れば、それもまた非常に真っ当な結婚観ではあります。

「おまえは俺が嫌いなのか」
『YES』と即答してくれない瞬に、氷河王子が少しつらそうな目を向けます。
「そんなことあるはずないでしょう!」
瞬からの答えは、今度はすぐに返ってきました。
氷河王子にそんな誤解を受けることにだけは耐えられないと訴えるように、とても力強い声で。

そして、瞬のそんな答えにびっくりしたのは、氷河王子ではなく星矢と紫龍の方だったのです。
てっきりこれは氷河王子の一方的な片思いだと思っていたのに、いったいいつのまに事態はそんなことになっていたのでしょう。
彼等は驚嘆と奇異の念を禁じ得ませんでした。
ですが、それは現実にして事実。更に真実でもあるようでした。
瞬が――瞬も――氷河王子に恋をしてしまっているというのは。

「だと思った。それなら何も問題はない」
瞬を抱き寄せ、抱きしめて、氷河王子が嬉しそうに瞬に告げます。
氷河王子の胸の中で、瞬は、恥じらうように可愛らしく、小さく首を横に振ったのでした。

が、このハッピーエンドに得心できないのは星矢です。
それはそうでしょう。
王子の立場にありながら軽率な言動で国を危機に陥れた氷河王子が、何の罰も受けることなく、その恋が実り幸せになるなんて、それは勧善懲悪のお約束から外れきった展開というものです。

「氷河のあの自信はどこから湧いてくるんだよ! そんで、なんでいつも結局は何もかもが氷河の思い通りになるんだよ!」
「それがわかったら、俺たちでも一国の王子になれるだろう」
疲れたような口調で、紫龍は星矢をなだめにかかりました。
紫龍とて、この結末を諸手を挙げて心の底から屈託なく喜ぶことはできなかったのです。

けれど、人生とはこういうもの。
多少人間的に問題があるにしても、天は、積極的に幸福を手に入れようと努力する人間にこそ 幸福を授けるのです。
自分が幸福になるための努力をしない人間は、決して幸福にはなれません。
氷河王子は、その点に関してだけは努力家で勤勉でした。
そして、彼は、努力すべき時機を心得てもいたのです。
何といっても彼は、腐っても王子様でしたから。






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