「あ、はい、あの――僕の父は、エーゲ海にある小さな島を治めていた領主で、兄は家の嫡男でした。兄とはいっても、僕とは母親が違うんです。僕は庶子なので」
「異母兄弟というわけ?」
気を取り直したように語り始めた少年にアテナが尋ね、彼は女神に小さく頷いた。

「僕の母は身分の低い――貧しい農家の娘で、兄の母君はイタケの王家の血を引く誇り高い女性でした。父は、僕の母を愛していたというより、安らぎというか、気を休めることのできる場所を僕の母に求めていただけ――だったのだと思います。奥方様には兄という嫡子がいましたし、僕を産んでまもなく母が亡くなると、僕はほとんど誰にも顧みられることがなくなりました。僕はひ弱な子供でしたから、あまり長く生きられるとは思われていなかったようです。僕の世話を命じられた使用人もいることはいたんですが、どうせ死ぬ子供だと思われていた僕は病気になっても放っておかれて――母を失い、父からも顧みられない僕を、兄だけが哀れんでくれて、気遣ってくれた。僕は本当にまだ立って歩くこともできないような子供だったから、よく憶えてはいないんですけど、兄がちゃんと僕の世話をするようにと皆に命じてくれたから、僕は生き延びることができたんだ……って、館の者たちから幾度も聞かされました。兄がいなかったら、僕は1歳の誕生日も迎えられなかっただろうって」

その時、この少年の兄の年齢はどれほどだったのか。
大人たちが打ち捨てた命を拾い上げ庇おうとした者が、まだ年端もいかぬ子供だったというのなら、人は 人の命を重さを経験によって知るものではないということになる。
あるいは、人は、長く生きることによって、それを忘れてしまうのかもしれなかった。
自分の命だけを守るために。

「でも、それで兄と兄の母君の仲がおかしくなって――僕が5歳になった頃、兄が僕を不相応なほど厚遇するのに苛立った奥方様が、ある時兄に向かって『あんな子供は死んでしまえばいい』と言ったのだそうです。それで、兄は――自分という嫡子がいるから僕がないがしろにされるのだと考えたらしく、僕のために……家を出てしまったんです」
瞬が唇を噛み、顔を伏せる。
アテナはそんな少年を無言で見詰めていた。

「父は、もちろん、あちこちに人をやって兄を捜させました。でも見付からなかった。奥方様は自分が口走ったことを深く後悔されて、僕なんかに謝罪までしてくださった。兄を捜すために手を尽くしたにも関わらず、兄の行方は杳として知れなくて、結果的に僕は父の家のただ一人の跡継ぎになり、父は僕を顧みてくれるようになったんです。――兄が考えた通りに」
だが、瞬はその状態を素直に喜ぶことができなかったのだろう。
それは当然のことである。
他人の犠牲によって得ることのできた幸運、他人の犠牲がなかったら得ることのできなかった幸運――に、まともな神経を持った人間は 価値を見い出さない。

「兄の実母である奥方様が2年前に亡くなり、父も半年前に亡くなりました。それで、僕が島の領主になることになったんですが――僕が父の領地を継ぐわけにはいかないでしょう。あれは兄のものです」
瞬はまともな神経を持つ人間のようだった。
仁義を重んじる心と情とを持ちあわせている。

「それでなくても、僕は、兄が僕のために手放したものを――本当は兄に与えられるはずだったものを、この身に受けてきたんです。僕はそれを兄に返さなきゃならない。そして、謝らなきゃならない。僕は兄さんのおかげで生きてこれた。兄さんに、ありがとうって言いたい。僕は……僕は兄さんに会いたい……!」
瞬の訴えの後半は、声もくぐもり、はっきりと聞き取ることができなかった。
父親が亡くなってから半年、兄のものを兄に返すため、何より 兄に会いたいという自身の心に衝き動かされて、彼は当てもなくギリシャ中を捜しまわったのだろう。
だが、その半年の間 毎日、瞬に与えられるものは失望と落胆だけだったのだ。

「一輝……一輝ねえ」
アテナがその名を舌の上で転がす。
彼女は、何やら思うところがあるようだった。
「お兄様がどんなふうな様子をしていたのかを、あなたは憶えているの?」
「兄が家を出たのは15の時で――僕はその時、まだ5歳になったばかりの子供だったので、あまりはっきりとは憶えていないんです。でも、黒い髪と黒い瞳をしていて――」

今となっては遠い昔のものとなった記憶を呼び覚まそうと努めて、結局瞬はその努力を中断したようだった。
瞬の兄は、瞬の身を気遣い周囲の者たちにあれこれと指示を発しはしても、直接瞬と触れ合う機会は少なかったのかもしれない。
離れたところから非力な弟を見守ってくれている兄への思慕は、主に瞬の胸の内だけで培われたものだったのだろう。
そうとしか思えないような言葉を、瞬はアテナに告げた。

「きっと、神のように美しくて、オリュンポス山の頂にある純白の雪のように清らかで、至福の苑エリシオンに咲く花のように優しい姿をしていると思います」
「……」
余人には窺い知ることのできない考えがあって、事実を告げることをためらっているようだったアテナが 一瞬息を止めたのが、彼女の聖闘士たちにはわかった。
短い沈黙のあと、なんとか我にかえることのできたらしいアテナが、瞬に声をかける。

「そういう事情なら、あなたのお兄様を捜してみましょう。あなたにはしばらく聖域に滞在することを許します。部屋を準備させるわ」
「あ……ありがとうございます! よろしくお願いします!」
張り詰めていた心の糸がアテナの言葉によって緩んだのか、アテナの厚意に謝意を告げ終わった途端、瞬はアテナ神殿の広間の床に膝から崩れ落ちていった。






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