アテナは彼女の女官たちではなく、ただ一人だけその場に立ち合っていた黄金聖闘士――乙女座の黄金聖闘士に 瞬を用意させた部屋に運ぶよう命じた。 アテナが瞬を不相応に丁重に扱うのは、『彼が“一輝”の弟だから』という理由だけではなさそうだと、アテナ神殿に残った青銅聖闘士たちは思ったのである。 ともあれ、瞬とアテナの姿が消えると、広間のどこからともなく含み笑いが洩れ始め、それはまもなく爆笑になって、アテナ神殿の玉座の間に響き渡った。 「始めのうちはもらい泣きしながら聞いてたのにさ! 神のように美しくて、雪のように清らかで、花のように優しい オニイサマだと! 笑い死ぬかと思ったぞ。おい、一輝、出てこいよ! おまえの花のような姿を拝ませてくれ」 星矢の要望に応える気はなかったのだろう。 アテナの玉座の後ろの 鳳凰座の聖闘士である一輝――は、見るからに精悍な肢体の持ち主で、顔立ちも整っており、決して醜くはなかったが、しかし、その風情は決して雪や花に例えられる種類のものではない。 今 仲間たちの前に姿を見せることが いかにも不本意であるかのように、彼はその唇を真一文字に引き結んでいた。 「なぜ、名乗り出てやらなかったんだ」 星矢のからかいを無視して、紫龍が責めるように言う。 静謐が堅持されるべきアテナの御前とはいえ、長く別れていた肉親同士の対面を許さないほど、アテナは作法を重んじる女性ではない。 あの場で一輝が弟に駆け寄り抱きしめてやっていたとしても、アテナは二人の邂逅を喜びこそすれ、咎めるようなことはしなかったはずだった。 「そうそう。一輝の弟とも思えないくらい可愛い子だったじゃん。すれてなくて――女の子みたいな顔してたな」 「ここに来るのも大変だったろう。まともな道があるわけでもないし、手足が傷だらけだった」 星矢と紫龍は、一輝が だからこそ彼等は、すぐにでも弟の許に行くよう、気軽に一輝をけしかけたのである。 しかし、一輝は彼等の挑発に乗ろうとはしなかった。 「俺はアテナの聖闘士だ。聖域を出るつもりはない」 「それならそうと知らせてやればいいだけのことだ。俺は聖闘士としてここに残るから、おまえは国に帰って、兄に気兼ねせずに父から受け継いだものを自分のものにしろと」 「10年も放っておいた。今更、俺がおまえの兄だなどと名乗り出たりできるか」 「おまえが親の死に目に合えなかったのも、自分のせいだって思ってるみたいだったぞ。ちゃんと生きてるくらいのことは知らせてやらないと、罪悪感に押し潰されちまいそうな感じで――このまま何も知らせてやらなかったら、かわいそうじゃん」 「死んだものと思われていた方が、俺も気が楽だ」 紫龍と星矢が言葉を尽くして けしかけても、一輝は一向に弟の許に向かおうとしない。 雪や花に例えられたことに臍を曲げているにしては、一輝の態度は頑なに過ぎた。 星矢たちがそんな一輝に怪しむような目を向ける脇から、白鳥座の聖闘士が口をはさんでくる。 「神のように美しくて、雪のように清らかで、花のように優しいオニイサマとは、いくら何でも夢を見すぎだ。現実を教えてやれ。おまえの兄はむさくるしくて、暑苦しいツラをした見苦しい男だと。現実を知れば、がっかりして大人しく国に帰る気にもなるだろう」 氷河の声音には、思い切り皮肉の響きがあった。 一輝が胡散臭いものを見るような視線を氷河に向け、不愉快そうに眉をひそめる。 「まあ、あんなふうに信じ込んでいるのでは、貴様が兄だと名乗り出ても、あの子は貴様を兄の偽者だと思うかもしれんが」 「それ、ありえる!」 この二人の間に漂う空気が険悪なのは いつものことである。 氷河の皮肉を そよ風のように受けとめ、星矢は声をあげて笑った。 「あの子の夢を壊したくないのならさ、あの子が納得するような身代わりを仕立てるっていうのはどうだ? で、その身代わりにあの子を説得させて、故郷に帰らせる」 「誰をだ? 黒い髪で、黒い瞳で、神のように美しくて、雪のように清らかで、花のように優しい聖闘士なんて、この聖域には一人もいないぞ」 「俺、適役知ってるぜ」 「誰だ」 「ハーデス」 「馬鹿も休み休み言え」 聖域とアテナの宿敵の名を出されて、渋い顔をしたのは一輝だけではなかった。 星矢が、肩をすくめる。 場を仕切り直すような咳払いを一つして、紫龍は鳳凰座の聖闘士に向き直った。 「だが、このまま放っておくわけにはいかないだろう」 「健気だよなー。兄貴がいないのをこれ幸いと、領地財産全部 自分のものにしちまえばいいのに。きっとすごく苦労してここまで来たんだぜ。あの細っこい身体でさ」 氷河の味方をしたいわけではないのだが、一輝があまりに頑ななので、星矢としても嫌味がましい物言いをせざるを得なくなる。 一輝は、自分が兄だと弟に名乗り出たくないわけではないらしかった。 星矢の嫌味に、らしくもなく顔を伏せ、 「小さな手で砂糖漬けの杏を欲しがるような子だったのに……」 と、低く呟く。 弟が兄を求め、兄もまた弟に兄弟の情を感じているのなら、兄弟が出会うことにいったいどんな不都合があるというのだろう。 一輝の頑なな態度が、氷河にはどうにも納得できなかった。 確たる根拠もなく自信家で不遜なところのある一輝と、もともと氷河は気が合わなかった。 口を開けば嫌味と皮肉の応酬になるのは いつものことだったが、今回ばかりは、気が合う合わないの問題ではない。 あの細い手足の少年の、肉親を求める心が痛いほどわかるから、アテナの聖闘士でいるためなどという大義名分を振りかざして 肉親との対面を避けようとする一輝に、氷河は憤りを覚えずにはいられなかったのである。 生きているのなら生きているうちに抱きしめてやればいいではないか。 死んでしまったら、触れることすら叶わなくなる。 氷河は、この瞬間、たった今、これまでで最も強く激しい怒りと不愉快を 一輝に対して感じていた。 |