その声は いつも闇の中から響いてきた。 彼が、ごく幼い子供だった頃から。 彼は、自分がいつどのようにして言葉というものを覚えたのかを記憶していなかった。 もしかしたら闇の中から響いてくる その声によって、自分は言葉というものの存在を知ったのではないかと思う。 その声は、様々なことを彼に教えてくれた。 世界には生者の国と死者の国があること。 神という高貴な存在と、人間という醜悪な生き物がいること。 死んだ人間は生者の国から死者の国に来て、冥府の王に従わねばならないこと。 人間たちが自分たちの醜さを、実際には存在しない“愛”というもので糊塗し、偽りの生を生きていること。 闇の中から響いてくる声はいつも冷ややかで、決して彼に質問を許さない厳しさがあった。 それでも、彼にとっては、その声だけが彼に言葉をかけてくれるただ一つのもの。 声の主がいなかったら、自分は言葉を使うこともなく、そもそも言葉という道具で自分の考えを他者に伝える術があるということを知ることすらもなかっただろう。 彼にとって、闇からの声は、彼に“他者”という概念を理解させてくれる唯一の存在だった。 「そなたは、実はもう一人いるのだ。もう一人のそなたは醜悪な人の世で生きている。あの世界で、己れの清らかさを保つのは至難のわざ。おそらく、余の肉体となり冥界と地上を支配する唯一の王となるのは、そなたであろう」 闇からの声――声の主は、自らを冥府の王ハーデスと名乗った――は、しばしば彼にそう言った。 ハーデスは今は魂だけの存在で、実体を持っていない。 そして、その魂を宿すべき清らかな人間の成長を待っている。 彼の魂の器となる人間の候補は一人、そして二つ。 「もう一人のそなたが人の世で清らかさを保つことができたなら、それこそが余の望む真実の器ではあるのだが、人の世は時を経るごとに汚れを増している。見果てぬ夢は見ぬ方がよいのだろう」 「せめて そなたは美しく育て。人間たちの醜さに触れず、身の内に醜い心を養うことなく、清らかに、ひたすら無垢に」 「そして、いつか、神である余と一つのものになるのだ」 ハーデスの真意は自分にあるのか、それとも自分はもう一人の自分の予備の存在にすぎないのか、彼にはわからなかった。 神の思惟など、人間には知りようもない。 ハーデスの他には彼に語りかける者のない冥界の片隅で、人の世の汚れにも罪にも触れることなく、人間の冷酷も醜悪も知らずに、彼は生きてきた。 人間でありながら、人間という醜悪なものから隔離されて。 知らぬものには染まりようがない、汚れを知らぬ者は汚れようがない――というのが、ハーデスの考えらしかった。 彼が知らぬものは、人の世の汚れや罪だけではない。 彼は、命の危機を知らず、生きるためのつらさも悲しみも知らず、他人に虐げられることもなく、無論 飢えを恐れる心も知らず、戦いも知らず、当然 人を傷付ける経験を持つこともなかった。 ぼんやりとした白い闇の中で、外界からの影響を受けることなく、醜いものを見ることなく、彼はただひたすらに孤独の思いだけを深めながら生きることをしてきたのである。 その清らかさを保ち、いずれハーデスの意思をその身に宿し、世界の王となるために。 人間界で生きているもう一人の彼と区別するために、ハーデスは彼を |