“瞬”と共に辿り着いたジュデッカで、氷河はもう一人の瞬を見付けた。 だが、それを瞬と呼んでいいものかどうか――。 漆黒の髪と闇の色の瞳をした瞬。 彼は、アテナの聖闘士が連れてきた“瞬”に気付くと、瞬の瞳が作り出すものとは思えないほど冷ややかな眼差しを“瞬”に投げかけてきた。 「そなた……来たのか」 漆黒の瞬は、その唇に冷たい笑みを浮かべ、腰掛けていた禍々しい玉座から ゆっくりと立ち上がった。 そして、言った。 「手間がはぶけた。見よ。もう一人のそなたの姿を。この者は奇跡を起こした。この者は、醜悪な人の世に生きていながら、その清浄を失うことなく、清らかであり続けたのだ」 「清らか……?」 オリジナルは、今は氷河と共に生きることを望んでいた。 胸中に生まれたその望みは、もはや消し去ることはできそうにない。 だが、実際に、瞬の姿をしたハーデスを見ると、オリジナルの心は揺れた。 冥府の王の玉座に就いているのは、本当は自分だったはずなのだ。 人の世の汚れを知らぬ もう一人の瞬――瞬の ハーデスの魂を我が身に受け入れハーデスと一体になれば、自分は永遠に一人ではなくなり、孤独を忘れることができる――と、オリジナルは信じていた。 その希望を、瞬とハーデスは二人して、ハーデスのためだけに生きてきた人間から残酷に奪いとったのだ。 「僕は清らかではないと、あなたは言うの? なぜ? 人の世の汚れを知らない僕が、瞬より清らかでないなんてことがあるの?」 「瞬?」 氷河は、彼が瞬と信じていたものが冥府の王に告げた言葉に驚き、目をみはることになった。 瞬と同じ白い肌、細い肢体、髪、声――。 瞳すら瞬のそれと同じだと思っていたのに、今 彼の目の前でハーデスを見上げている瞬は彼の知っている瞬ではなかった。 そして、自分と同じ姿をした者がもう一人 この場にいることを、“瞬”は奇異なこととは思っていないようだった。 「不思議なことだが、そのようだ。余の目には、そなたよりアテナの聖闘士であった瞬の方が清く輝いて見える。事実、神である余はこうして瞬の身体と合一することができた」 瞬ではない瞬が、漆黒の瞬を睨みつける。 氷河は異様な違和感に支配されていた。 瞬と瞬のやりとり。 一方の瞬は 漆黒の髪と漆黒の瞳を持ち、冷たく傲慢な眼差しを もう一人の瞬に向けている。 ハーデスの言葉を信じるなら、その身は冥府の王に支配されている。 そうして、もう一方の瞬――石の館で出会った瞬――は、己れと同じ姿をした者を 燃えるような目をして睨みつけている。 氷河が知っている瞬は、他人にそんな眼差しを向けることをしない人間だった。 たとえ、それが敵であっても。 「これは……どういうことだ。瞬は――俺の瞬はいったいどっち……いや、どこに行ってしまったんだ !? 」 ここにいる瞬は、二人共が氷河の知る瞬ではなかった。 どちらも、瞬のものではない眼差しをしている。 瞬ならば決して口にしない言葉を発していた。 漆黒の瞬が、この場にいるただ一人のアテナの聖闘士の上に、瞬のものではない視線を巡らせる。 彼は同情にたえないと言わんばかりに冷笑的な目で、氷河を見下ろした。 「ここにそなたの瞬はいない。アンドロメダ座の聖闘士だった者は、今では余のもの、余自身となっている。そして、そなたの横に立つ者は、これまでそなたと共に戦ってきた瞬ではない。同じものだがな。余はオリジナルと呼んでいた」 「 「僕が、本当の、本来の瞬だ。ハーデス、あなたは僕を不要だというの !? あなたによって同胞と共に生きることを禁じられ、人の温もりも知らされずに生きてきた僕を、あなたは今更打ち捨ててしまうの !? だとしたら、僕はあなたを許さない。僕はあなたを憎む……!」 オリジナルと名付けられた者が、ハーデスに険しい口調で言い募る。 険しいが、その声は悲痛で、やるせなさに満ちていた。 そして、瞬らしくないものだった。 そう、氷河は感じた。 ハーデスも、同じことを思ったらしい。 「憎しみなどという感情を、そなたはどこで覚えたのだ。やはりそなたは余の魂の器にはふさわしくないものだったらしいな。では、その“人間”と共に余に歯向かい、そして余に倒されるか? 戦いなど知らぬ幸福で無力なそなたが、どうやって余に逆らうというのだ。憎しみの言葉だけでは、余を倒すことはできぬ」 「……」 無力な瞬――が、漆黒の瞬の言葉に項垂れる。 オリジナルは、瞬と同じ姿をしていた。 しかし、瞬と違って、彼はどんな力も持っていないらしいことを、氷河は悟った。 神との合一など果たさなくても、人の世で生きてきた瞬は力を持っていた。 苦難の果てに得た力、戦いの中で得た強さ、人を傷付けることで自らも傷付き、そうすることで得た優しさ――。 だが、孤独の中でただ命を永らえるだけの生を生きてきたオリジナルには、何の力もない。 その事実を、不幸なことに、オリジナル自身も知っているようだった。 瞬ではないもの――とわかってはいても、氷河は彼の打ちひしがれた姿に同情を覚えたのである。 戦いに勝利して敵を傷付けるたびに、彼の瞬も己れの無力を嘆いていた――。 その瞬が――今は冥府の王となってしまったらしい瞬が――力を持たないものには何の用もないというかのような態度で、氷河に向き直る。 「その者は、そなたの瞬と同じものだ。瞬の代わりにそなたにやろう」 「俺の瞬と同じ……? それはいったい……なぜ瞬が二人いるんだ」 そして、なぜ、そのどちらもが自分の知る瞬ではないのか。 氷河は混乱していた。 瞬に――彼の瞬に――会うことでしか、この混乱を鎮めることはできない――と思う。 漆黒の瞬が、彼の玉座の前で顎をしゃくる。 到底 瞬のものとは思えない仕草だった。 「余は、随分と気の長い方だと思うのだが――その余も、いつまでも決着のつかないアテナとの戦いには 語っている者は、瞬の姿をしたもの。 しかし、そこに瞬らしい温かい表情はない。 氷河は不快でならなかった。 あの温かい瞳の輝き――太陽より価値ある光――を、瞬の瞳はいつもたたえていたというのに、それはもう失われてしまった――もはや取り戻すことはできない――というのだろうか。 「そこで、余は、今生で余の器となる人間が生まれた時、その身を二つに分けたのだ。一方は人の世で人間として生き、もう一方は余の支配するこの冥界で、人の世の汚れを知らずに成長する。人の世で生きている者が余の意に添わぬ者に成り果てたら、その時には人の世の汚れを知らず、人の世への執着も持っていないオリジナルの身体を余のものとすることにしようと決めていた。十中八九そうなるだろうと思っていた。ところが、そなたの瞬は奇跡を起こした。余は人の世の汚れを知らぬオリジナルよりも、アテナの聖闘士として多くの者を傷付けてきた瞬の方に惹かれる。瞬の方をより清らかと感じる。瞬こそが、何千年という長い時間 待ち続けた、完璧な余の器。他の者はもう要らぬ」 「瞬を分けた……瞬の分身?」 瞬の姿をした漆黒の者が、氷河の呟きに高慢な仕草で頷く。 そして、彼は、瞬ならば決して言わないはずの言葉を氷河に告げた。 「欲しければ、その者をそなたにくれてやろう。余は、そなたが余の瞬を抱くたび、瞬が汚れることを怖れ、そなたを忌々しく思っていたが、瞬はそれでも汚れなかった。その者――瞬のオリジナルは、そなたの瞬と同じように抱くこともできるぞ。もともと一人の人間だったものなのだから。余を倒すなどという不可能の実現を諦めて、そなたは このまま人の世に帰るがよい。まもなく訪れる人の世の最後の時まで――その者と浅ましい肉欲に浸って時を過ごすのも一興というもの」 瞬は何を言っているのだろう――と、氷河は思ったのである。 瞬にそんなことを言われるのは、やりきれない。 そんな醜い言葉を、瞬の姿をしたものが吐くことが、氷河には我慢ならなかった。 「俺が好きなのは、俺の瞬だけだ! これまで、共に戦い、共に傷付き、互いに支え合って生きてきた俺の瞬だけ――」 「そなたの瞬は、もうどこにもおらぬ」 氷河の叫びを冷酷に遮る者が、瞬なのである。 氷河は言葉を失い、声を失った。 これは本当に瞬ではない――彼の知る瞬ではなかった。 そんなハーデスに、もう一人の瞬が噛みつくように叫ぶ。 |