冥府の王の瞳から零れ落ちる涙――を見て、オリジナルは氷河とは違うことを考えていた。 瞬が――人間にすぎないものが――もう一人の彼に同情することは、これ以上ないほどの傲慢だと。 神ならまだしも人間が、神の意思によって孤独に耐えてきた人間に同情する。 高慢で幸福な人間が、不運で不幸な人間を哀れむ――。 これ以上の侮辱があるだろうか。 これほどみじめなことがあるだろうか。 幸福な人間が、その幸福をかさに着て、不幸な人間にただ一つ残されたプライドまでを踏みにじっているのだ。 「おまえなんかに何がわかるっ!」 もう一人の瞬の心中からは、もはや神を畏れる気持ちも失せてしまっていた。 失うもののない人間に――たとえ彼が最初から無にすぎないものだったとしても――怖れるものなどあるはずがない。 オリジナルが、ハーデスの玉座に続く 冥府の王の玉座に近付こうとしているオリジナルに、ハーデスは眉をひそめた。 「無力な人間の分際で、余の側に近付くな」 「孤独は闇を養うだけだった。僕の中にあるのは闇と無と――ああ、それは同じものだね。温もりもなければ明るさもない。生きているものにはそれが必要なのに。僕は生きながら、死の世界に閉じ込められていた」 瞬の姿をした不幸な人間は、いったい泣いているのか笑っているのか――。 その場にいる誰にも――オリジナル自身にも――それはわかっていなかった。 ハーデスの諌止を無視して、 「僕は本当に無力? 僕は瞬だ。あなたたちの大好きな瞬。瞬の身体と僕の身体が触れ合えば、僕たちは元の一人の人間に戻るしかないよね? ハーデス」 「そなた……」 「あなたが好んだ瞬の清らかさに、僕の闇と孤独が入り込む。そんな瞬の身体の中に、冷徹で高潔なあなたの魂は収まっていられるの?」 「寄るな!」 ハーデスの――漆黒の瞬の――冷酷なばかりだった表情が、初めて あるいは、それは恐怖によるものだったのかもしれない。 オリジナルの言葉が嘘ではないことを、氷河はハーデスの歪んだ表情によって確信することができた。 ハーデスの右の手が前方に振りおろされる。 その手の先から生まれた闇でできた稲妻のようなものがオリジナルの身体を貫き、彼の身体は階段の下に叩きつけられた。 聖闘士でもない無力な人間に、それは絶望的な衝撃であったに違いない。 彼は、叩きつけられた床の上で瀕死の獣のように呻いた。 オリジナルの側に駆け寄ろうとして――、だが、氷河はそうすることができなかったのである。 彼は瞬を憎む者。 なぜ手を貸すことができるだろう。 聖闘士ではなく、それどころか普通の人間としてもろくに鍛えられていないオリジナルの身体はもろかった。 彼の身体は瞬のそれとは違って、本当に ただ細いだけなのだ。 それでも彼は、彼の悲憤をハーデス――瞬――にぶつけることを諦めなかった。 ハーデスの攻撃をよける術もなく倒れ伏した彼は、しかし、床に這いつくばってなお、冥府の王の玉座に続く階段に取りついた。 「僕……が瞬に触れるだけですべては終わる。ハーデスの計画も、氷河の愛した瞬も消える。瞬は、僕の闇と孤独をその身に抱えた人間になり果てる。僕と瞬はもともと一つのものだった。誰も僕を愛してくれないのなら、せめて――」 汚れた人の世で罪を犯しながら、泣き、苦しみ、傷付きながら生きている瞬。 オリジナルは、もう一人の自分を哀れみながら、同時に憧れていた。 一人でないということは、どんなことなのか。 それは、あらゆる苦しみや悲しみをその身に受けても、生きることの苦しみに耐えなければならないという代償を払ってでも 手放すことができないほどに価値があるものなのかと。 哀れみ、憧れ、憎み続けた瞬――もう一人の自分。 孤独に耐え続けた不幸な人間の 「せめて、瞬を僕のものにする」 自ら死を望んでいるのだとしか思えないオリジナルの執念にたじろぎ、ハーデスがあとずさる。 彼は、ほとんど死に瀕しているオリジナルに、再び、今度こそ その命を消し去る攻撃を加えることを決意したようだった。 地に這いつくばっている瞬の姿をした者に、その手を向ける。 だが、ハーデスの白い手は、今度は何の力も吐き出さなかった。 オリジナルの命を奪おうとしているハーデスは、同時にオリジナルに向かって手を差しのべようとしているように見えた。 ハーデスの手が、ぎこちなく、苦しげに――まるで腕そのものが独立した意思と力を有しているように震えている。 ハーデスに心を押さえ込まれている瞬がそうしているのだと、氷河にはわかった。 瞬は、もう一人の自分に触れようとしている――のだ。 「瞬っ!」 氷河は悲鳴をあけずにはいられなかったのである。 ハーデスの力によって二つのものに分けられてしまった二人の瞬が触れ合えば一つのものになる――というオリジナルの言が事実なのであれば、今、瞬――氷河の好きな瞬――がしようとしていることは、自分を消滅させるための行為だった。 『こうすれば、ハーデスは僕の中にいられなくなる――ハーデスの野望を挫くことができる』 小さな、だが、決意に満ちた瞬の声が聞こえる。 「やめてくれっ。おまえが消えてしまうっ!」 氷河は再び叫んだ。 もともと一つだったものが神の力によって分けられたのだとしても、二つに分けられた時から、二人の瞬は違う時を過ごしてきたのだ。 異なる経験を経験してきた人間は、それぞれに異なる個人である。 そして、氷河が好きなのは、自身の命を失っても守りたいと思うのは、ただ一人の瞬――アテナの聖闘士として共に戦ってきた瞬だけだった。 その瞬の心が生きている――まだ存在している。 漆黒の瞬に出会ってから初めて氷河の中に生まれた希望――瞬を取り戻すことができるかもしれないという希望――を、瞬自身が消し去ろうとしているのだ。 絶望の中でやっと見い出すことのできた希望を再び失うことは、氷河には耐えられないことだった。 「やめてくれ。今度こそ本当に、おまえが消えてしまう……」 氷河の悲痛な願い。 しかし、瞬は氷河の願いを優しく拒絶した。 『この人……もう一人の僕は、寂しいだけなの。愛されることを知らず、愛することも知らず、愛することのできるものを求めている』 「瞬……」 瞬の心はわかる。 わかりすぎるほどわかる。 傷付き苦しんでいる人間に救いの手を差しのべないことは、瞬のこれまでの生き方と戦いを否定することなのだ。 その上、“瞬”が消えることで救われるのは、もう一人の瞬だけではない。 ハーデスの傲慢によって一方的にその命と意思を奪われようとしている多くの人間が、瞬の消滅によって救われるかもしれない――のだ。 それでも、そんな救いは、氷河には受け入れ難いものだった。 命ならまだしも、もう一人の瞬と地上に住む人間たちを救うために瞬が犠牲にしようとしているものは、瞬の心なのである。 「俺は――我が身を犠牲にして戦うおまえに、俺は耐えてきた。それがおまえの戦い方だと思ったからだ。それがおまえの意思で、おまえの心を守ることでもあると思っていたからだ。だが、これは違う。おまえの心までが消えてしまったら、俺は――それは――」 それは、瞬のこれまでの戦いを否定するということではないだろうか。 その戦い方を選んだ瞬の心が消えてしまうということは。 だが、瞬はそうは考えていないようだった。 『氷河、心配しないで。きっと新しい僕は、今までの2倍、氷河を好きになるだけだから』 そんな希望――そんな不確かな希望にすがれと、瞬は言うのだろうか。 二つに分かれていたものが一つになった時、瞬が死んでしまわないと誰に言えるだろう。 肉体の命が失われずに済んだとしても、オリジナルがその身の内に養ってきた巨大な闇に瞬の心が呑み込まれて、瞬が瞬でないものになってしまわないと、誰が約束してくれるのだ。 それでも瞬は――その可能性に気付いていないはずのない瞬は――、もう一人の自分に手を差し延べ続けた。 『こうしなきゃ、僕は、僕の守りたかった世界を自分の手で消し去ってしまう』 「瞬……」 『氷河……。大好きだから、僕の我儘を許して。僕に力を貸して』 「瞬……」 瞬は、それが今の自分の戦い方だと決めたのだ。 瞬は、どうあっても、ハーデスの 瞬にそこまでの決意を示されて、氷河が瞬に逆らえるはずもなく――彼は逆らえなかった。 アテナの聖闘士としては不幸なことに。そして、瞬の恋人としては幸福なことに。 ――仲間を失うのはつらいことだが、恋人の意思に逆らえないのは幸せなことだろう。 それほどの相手に、氷河は巡り会えたのだ。 |