瞬自身が消えてしまった時には自分もその命と心を放棄する覚悟で、氷河はオリジナルの許に歩み寄った。 そして、石の床に倒れ伏していたオリジナルの身体を抱きあげる。 オリジナルはまだ、かろうじてその命を保っていた。 手足からは既に力が抜けきっていたが、瞳だけは、まだ不思議な生気と輝きをたたえている。 間近で見るオリジナルの瞳は、やはり瞬のそれに酷似していた。 瞬も本当は、オリジナルと同じ孤独をその身の内に抱えているのかもしれない――と思う。 氷河の瞳を、オリジナルは、まるで瞬のように幸福そうに見上げ、見詰めてきた。 違う心を持った違う人間のはずなのに、求める幸福は同じものであるかのように。 己れの死を間近に感じているはずなのに、この一瞬をひどく幸福なものと思っているかのように。 その様が、本当に瞬のようで、氷河は胸が詰まったのである。 「やめよ! そなた、自分のしようとしていることの意味がわかっているのか。そなたがその者と合一するということは、これまで生きてきた自分自身を、そなたが失うということなのだぞ!」 自分の中にいる瞬に向かってハーデスが叫ぶ。 瞬の身体を我がものにし、その心までを捻じ伏せようとしていた神が何を言っているのか――と、氷河は思った。 瞬も、そう思ったらしい。 『あなたに支配されて、自分の手で愛する人たちを消し去るよりましだ』 瞬の心は、もはやハーデスなど見ていなかった。 その目は、氷河の腕に抱きかかえられている もう一人の自分だけを見詰めている。 『もう一人の僕……手を伸ばして』 「あ……」 “他者”に優しい目で見詰められることにオリジナルは慣れていなかった。 しかも、その優しい眼差しの持ち主は自分と同じ姿をしている。 姿は同じだというのに、人の世で生きてきた瞬が その身にまとう優しく温かな空気はオリジナルの持っていないものだった。 汚れた人の世で生きているもう一人の自分を、オリジナルはいつも見下し哀れんでいたつもりだった。 このジュデッカで、自分は孤独を知らないもう一人の自分を憎んでいたのだということに気付かされた。 軽侮、哀れみ、憎悪――そんな感情をしか向けたことにない瞬に 優しい眼差しを投げかけられることにオリジナルは戸惑い、そして彼は、瞬に触れることにためらいを覚えた。 瞬は、だが、オリジナルを戸惑わせるものを もう一人の自分に向け続け、オリジナルを見詰め続けていた。 『寂しかったんだよね。ひどい。人の優しさや愛に触れずに、人がどうやって幸福になれるの。闇や汚れを乗り越えずに、人がどうやって清らかになれるの。こんなひどい実験をするなんてあんまりだ……!』 瞬がもう一人の自分に同情していることがオリジナルにはわかった。 考えようによっては屈辱的な瞬のその心が、だが、快い――不快ではない。 瞬の同情の源には優しさがあるから、不幸なものへの愛情があるから、自分はそれを快く感じてしまうのだと、やがてオリジナルは気付いた。 瞬の同情は高慢な気持ちでできているものではないのだ。 二人で闇を乗り越え、その闇を消し去ろうと、瞬はもう一人の自分に語りかけてくる。 オリジナルは――もう一人の瞬は――、だが、瞬の言葉に従うことをためらった。 「しゅ……ん……」 この瞬を、もう一人の自分を消し去りたくない――と、オリジナルは思ったのである。 否、瞬の温かい心を消し去りたくないと、オリジナルは思った。 自分が自分の命とプライドの保持を諦めれば、それは失われずに済むかもしれない。 冷酷なハーデスへの復讐は成らずとも、少なくとも、瞬の心は闇に呑み込まれることはないだろう――。 優しさ、人を愛するということ、人に愛されるということ、そして、孤独ではないということ。 もう一人の自分が経験してきたそれらのものに、彼を清らかにした それらのものたちに、一瞬でいいから包まれてみたいという気持ちはあった。 だが、そのために、この瞬を消し去ることはできない――と、オリジナルは思ったのである。 「いいよ、もう。僕はこのまま消えてしまっても……。最後に僕に会えたから」 自分と同じ面立ちをした者の姿がぼんやりとにじんで見える。 もっと、この優しい眼差しを持った自分を見ていたいのに、その姿が少しずつぼやけていく。 それは涙のせいだった。 涙を流すという経験はオリジナルには初めてのことで、自分がそんなものを持っていたことに、オリジナルは驚かないわけにはいかなかったのである。 闇だけを見詰め、孤独だけを見詰め続けて乾ききった瞳からあふれてくるそれは、とても温かかった。 その涙は、悲しみから生まれたものではなかったから。 もう一人の自分――瞬――に生きていてほしいと願うことのできる自分を、オリジナルは“悲しい”とは思っていなかった。 「僕の欲しかったものを、僕は手に入れることができたような気がするから……もういいんだ」 「瞬……」 瞬ではないはずの瞬のその呟きを聞いて、氷河は『これも瞬だ』と思ったのである。 初めて、そう思った。 二人の瞬が合一しても、もしかしたら瞬の心は失われないのかもしれないという希望が――あるいはそれは願望にすぎなかったかもしれないが――氷河の胸の内に生まれる。 オリジナルを抱きあげても、どうしても瞬の側に歩み寄ることができずにいた氷河の足を、その希望が前に押し出した。 二人の瞬の瞳に宿る光を確かめられる場所に至った氷河は、そうして、そこで足をとめた。 『大丈夫。僕たちは強い。二人で一緒に生きていこう』 既にハーデスの面影のない瞬が やわらかく微笑み、その手で、もう一人の自分の頬を伝う涙に触れる。 もはや手足を動かす力などどこにも残っていないように見えたオリジナルが、瞬の声に導かれるように、瞬の手に自らの手を重ね――その瞬間、二つのものは一つのものに戻った。 |