アテナは、私に、好きなだけ城戸邸に滞在していいとおっしゃってくださっていた。
『あなたの弟子のクール振りを、気が済むまで確かめていらっしゃい』と、微笑みながらおっしゃった。
邸内には、私のために五つ星ホテルのスイート並みの部屋が用意されていて、城戸邸での私の暮らしは申し分のないものだった。
私の日本での滞在先は、人間が快適な生活を送るために造られた建物であり、言ってみれば見張り小屋にすぎない宝瓶宮に比べれば、その快適さは段違いだったのだ。

だというのに。
城戸邸という空間、そこで過ごす時間に、私は尋常でない居心地の悪さを覚えていた。
氷河が仲間たちとうまくいっておらず、仲間たちに疎外されている場所――あるいは、氷河の方が仲間たちを避けている場所――なのだ、城戸邸は。
氷河の師である私に、そこが快適な空間であるはずがない。

私は、氷河を私の仲間たちの許に連れて行くべきか否かを迷い始めていた。
そんなことよりも、氷河の師として、私には他にすべきことがあるような気がしてならなかったのだ。
だが、それをするには時間がかかる。おそらくは年単位の。
そして、私は、氷河の師である前に、重大な責務を負ったアテナの聖闘士で――だから、私は迷うことになってしまったのだ。

本音を言えば、私は、氷河の師として、氷河を育て直すことをしたかった。
今のままでは氷河は、聖闘士としての務めを果たす前に、一人の人間として不幸になるような気がしてならなかったから。
しかし、今と昔とでは世界の様相が一変している。
アテナの聖域降臨後、アテナを倒そうとする者たちが引きも切らずに攻撃を仕掛けてくる今日この頃。
その上、私は、何よりもまずアテナの聖闘士として、アテナの身と意思を守るものとして、この世界に存在しているアテナの聖闘士なのだ――。

考えは堂々巡りを繰り返すばかりで、結論には至れない。
私は、無為に城戸邸での日を重ねていた。
――そんなある日。

氷河の師であることとアテナの聖闘士であること。
そのどちらを優先させるのが、この世界のためになるのかと、まるで人生の真理を追い求める哲学者の気分で城戸邸の廊下を歩いていた私の耳に、ふいに私の名が聞こえてきた。
誰かに呼び止められたのかと思い、私はその場に立ち止まったのだが、そうではなかったらしい。
私が歩を止めることになったのは、城戸邸の青銅聖闘士たちが溜まり場にしている部屋の前で、私の名は、その部屋の中から聞こえてきた。

「だから、カミュは――」
誰かが私のことを話している。
その部屋の前で、私はつい聞き耳を立ててしまったのである。
ドアは僅かに開いていて、室内にいるのは氷河とアンドロメダだということがわかった。

「疲れた?」
アンドロメダが氷河に尋ねている。
仲間も師も、あれだけ他人というものを無視しきっている氷河が、戦いもないのにいったい何に疲れるというのか――。
私にはアンドロメダの質問の意味がわからなかったのである。
氷河がアンドロメダにそう尋ねるのなら、納得もできたが。

氷河は師である私を放っぽって、私の日常の細々した世話をすべてアンドロメダに任せきっていた。
私の世話だけでなく、氷河自身の世話もアンドロメダがしているように見えた。
無論、私も氷河も2、3歳の子供ではないのだから、給仕をしてもらったり着替えの手伝いをしてもらったりしたわけではないのだが。
ああ、お茶は毎日いれてもらっているな。

そういうことではなく――たとえば食事の時の会話をリードするのはアンドロメダの仕事だった。
彼自身が喋ることが多いわけではないのだが、彼はまるで仲間たちと氷河の間を取り持つように、巧みに皆に話題を振る作業を、食事のたびに繰り返していた。
氷河はいつも無愛想な相槌を返す程度のことしかしないのだが、そんな氷河に向けられるアンドロメダの笑顔が、氷河をその場で異邦人にせずにいるような――そんなふうな世話だ。

彼がいなかったら氷河はこの屋敷の中でぽつんと孤立していたに違いないと、私には確信できた。
アンドロメダは日々の暮らしの様々な場面でさりげない気遣いを自然にできる少年で、この少年が仲間として氷河の側にいてくれることは、私の弟子にとっても私にとっても大いなる幸運だと、私は彼に感謝せずにはいられない。
だから――そのアンドロメダの方が、何もしていない氷河の疲労を気にするなど馬鹿げていると、私は思ったのだ。

部屋の中を覗くと、アンドロメダは肘掛け椅子に腰掛けていた。
氷河は行儀悪く、その椅子のアームに腰をおろしている。
何をどう考えているのか、氷河は、アンドロメダに問われたことに、
「まあな」
という答えを返した。
何が『まあな』だ!
どの面を下げて、氷河は偉そうにそんなことが言えるのだ!
私は私の弟子の無礼に大いに憤ったのだが、アンドロメダは、氷河のその思いあがった返答を聞くと、声を出さずに微笑した。

「氷河って、本当に先生思いで優しい」
「仕方ない。カミュは自分自身はクールとは程遠い人間のくせに、俺にはクールでいることを求める我儘なセンセイなんだ」
「可愛い教え子のことを心配しているんだよ」
「そこが既にクールじゃないと思うんだが」
弟子の分際で何を言っているのだ、氷河の奴は!
弟子の未熟にこれほど心を痛めている師の苦労も知らずに!
親の心、子知らずとは、まさにこのことだ。

私は即座に室内に飛び込んでいって氷河に説教をくらわしてやろうと思ったのだが――実際にそうしようとしたのだが――その寸前にアンドロメダが口にした思いがけない言葉が、私の手足と怒りを硬直させた。

「試しに、クールに僕をくどいてみて」
と、アンドロメダは言ったのだ。
アンドロメダのその言葉に驚いた様子も見せず、氷河はふっと(クールに)笑って、肘掛け椅子に腰掛けているアンドロメダの方に上体を傾け、
「愛してるよ」
と言って、彼にキスをした――。


なななななな何なんだ、これは!
いったい今、この部屋の中では なななな何が起こっているのだっ !?
氷河のキスにも言葉にも、驚いた様子を見せないのはアンドロメダも同じで、彼は氷河の振舞いに驚くどころか、
「クールな氷河は、唇が触れるだけのキスしかしないの?」
とからかうように氷河に言い――-ほほほほほほ本当に、いいいいったい、こここここれは何がどうなっているのだーっ !?

アンドロメダは笑ってそんなことを言っているが、これは笑い事ではない。
いくら細々とした気配りができて可愛いと言っても、アンドロメダは男子だ――そのはずだ――そう聞いている。
ということは、つまり、氷河とアンドロメダは、そそそそそそそーゆーことなのかーっ !?






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