So, let's start now






春は午前、夏は早朝、秋は夕暮れ、冬は午後。
清少納言の主張とは少々異なる時間帯が、氷河と瞬のお散歩タイムだった。
そして、
「氷河のあの力って、世界の平和に役立てられないかなあ」
と、日課になっている散歩から帰ってきた瞬が呟いたのは、あと1時間もすればランチタイムという時刻。
つまり、季節は春ということになる。

実際1時間ほど外を歩いて仲間たちの許に帰ってきた瞬の髪には、桜の花びらが一枚しがみつくように乗っていて、紫龍はその風情に風雅の感を抱いたのである。
その心には、地球環境の乱れが危惧されている昨今、今年も無事に桜の花の咲く季節が日本に巡ってきたのだという安堵の念も混じっていたかもしれない。

新芽が芽吹き、花がほころび、一般的に多くの動植物が一斉に活性化し浮かれ騒ぐと認識されている この季節――春。
春なのに――瞬のその呟きに、氷河は大いに傷付くことになった。
彼が その力を身につけたのは、決して世界の平和などというもののためではなかったのだ。

「氷河って、そんなすごい力を持ってたのかよ?」
そこに響いた、季節感も風雅も全く感じられない天馬座の聖闘士の声。
星矢に問われた瞬は、まるでそれを自分の持つ力ででもあるかのように得意げに、彼に頷き返した。
その弾みで、瞬の髪に佇んでいた春の証が、ひらひらとラウンジのテーブルの上に舞い落ちる。

「あれは何ていうか――女の人を親切で優しい人に変える力とでもいえばいいのかな」
「はあ?」
「ほんとにすごいんだから! ね、氷河?」
瞬に春そのものの笑顔を向けられた金髪男が、一瞬、子供の足に踏みにじられた霜柱のように顔を歪める。
同意するのは不本意だが、瞬の言葉を頭から否定することは なおさらできない。
瞬に同意を求められた氷河の表情は、実に複雑珍奇なものだった。
瞬の立場を尊重するために、結局氷河は開き直ることしかできなかったのであるが。

それでも一度、小さく嘆息してから、彼は思いきったように顔をあげ、顎をしゃくった。
「まあ、俺がちょっと流し目をくれてやれば、大抵の女は俺の言いなりになるな」
「うんうん。氷河のあの力って、中学生くらいの女の子から お年寄りにまで有効だよね」
こくこくと氷河に頷き返してから、瞬はその視線を星矢の上に戻した。
瞬の視線の先にあるものは、瞬と氷河の全く理解できない やりとりに首をかしげている天馬座の聖闘士の顔である。

「流し目って、どんなんだよ」
かくして星矢は、その胡散臭い単語の意味を、いかにも胡散臭そうに、二人の仲間に尋ねることになったのである。
「流し目っていうの、あれ。僕には、睨んでいるようにしか見えないんだけど。睨んで、魔法でもかけてるのかと思ってた」
罪のない笑顔で、瞬が説明になっていない説明をし、瞬のその笑顔に氷河は落胆した――落胆したように、星矢の目には見えた。
春なのに景気の悪い顔だと、星矢は思ったのである。
とはいえ、それは城戸邸では日常的に見られる光景、言ってみれば、それは ここ1年ほどの城戸邸のデフォルト状態だった。
氷河がやるせなくも辛気臭い顔をし、瞬はそんな氷河に気付いていない――というのが。

不景気な顔の男が、いかにも渋々といったていで口を開く。
「実際、睨むんだ。まず、相手を見る。相手がこっちの視線に気付いたら、その視線を捉えて、きつく睨む――睨むつもりで凝視する。ただし、2秒間。それ以上はだめだな。それから、ゆっくりと目を伏せて横を向く。それだけだ」
「氷河に2秒睨まれただけで、ほんとにどんな女の人でも素直になるんだよ! 今日なんかね――」
不景気な顔の氷河とは対照的に、瞬の店は好景気に沸いているらしい。
興奮気味に身を乗り出すと、瞬は世界平和に役立つかもしれないという氷河の力について熱く語り始めた。

「今日なんか、お散歩途中の公園でね! あ、大通りから1本奥に入ったとこに、小さな公園があるの知ってる? あの辺りに住んでるお年寄りがよく日向ぼっこしに来るところ。で、そこにはベンチがたくさんあるんだけど、今日は全部埋まってて、座れずにいるおばあさんがいたの。その中の一つに高校生くらいの女の子たちが座ってるベンチがあって、多分おばあさんが途方に暮れていることに気付いてなかったんだと思うんだけど、席を譲ってあげずにいたんだ。でも、氷河がその女の子たちをちらっと見て、場所を譲ってやれって言ったら、その女の子たち、すぐに嬉しそうな顔をしてベンチからどいてくれて――。今日だけじゃないし、公園のベンチだけでもないよ。電車でもバスでも駅や空港の待合室でも、他のことでも――。氷河には、人を優しい気持ちにして、親切な人に変えてしまう才能があるんだ!」
気負い込んで一気に氷河の力について語ってから、瞬は、『あんまり男の人には有効じゃないみたいだけど』と、小さな声で付け加えた。

「そうだ。地球温暖化対策にだって有効だよ。氷河が世界中の女の人たちを 地球に優しい気持ちを持つ人たちに変えちゃうの。世界中の女の人が毎日1時間節電するようになるだけでも、どれだけ二酸化炭素排出量が減ることになるか、考えただけで、僕、わくわくしてくる……!」
「……」

瞬が嬉しそうに言えば言うほど、氷河の表情はみじめなものになり、やがてそれはほとんど悲嘆の表情といえるものになった。
それ以上は瞬の無邪気に耐えられなかったらしい氷河が、ついに瞬の言葉を遮る。
「瞬、コーヒーが飲みたいんだが」
「え? あ、うん……」
「あ、俺も俺も」
「俺にも頼む」

瞬はまだ語り足りない様子だった。
が、『氷河の力を借りなくても優しく親切』を売りにしている瞬には、自分以外のすべての仲間のリクエストに応えずにいることの方が、お喋りの中断よりも はるかに居心地の悪いことだったらしい。
「ちょっと待っててね。すぐにいれてくる」
そう言い置くと、瞬はぱたぱたと転がるようにラウンジを出ていった。






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