瞬の姿がラウンジから消え去ると、星矢は、瞬のために作っていた笑みを即座に消し去って、おもむろに氷河の方に向き直ったのである。 そして、心の底から嫌そうな顔をして、氷河に尋ねた。 「その睨むような流し目テク、おまえ、まさか練習して身につけたとか言うなよ」 「……」 星矢の推察は事実に合致したものだったので、氷河は沈黙を守った。 途端に星矢が、 「ほんとに練習したのかよ、あほらしー」 と投げ出すような声で言い、身体までをソファの背もたれに投げ出す。 そうしてから星矢は、 「世界中の女を言いなりにできても無意味じゃん」 きっぱりと、そう言い切った。 「いや、一概にそうとも言い切れないだろう。地球上に生きている人間の半分は女なんだ。世界中の人間の半分を言いなりにできるということは、相当の力だと言えないこともない。少なくとも、普通の男には、氷河のそれは垂涎の技なんじゃないか?」 紫龍は普通の男ではないらしく、全く羨ましそうではない。 もとい、彼は氷河に比べれば ごく普通の男だったろうが、同時に彼は 氷河が苦労して身につけた技の無価値を正しく認識してもいたのだ。 星矢が、その技の無意味に気付いているように。 「でも、その力、瞬には利かないんだろ」 星矢が実に鋭いことを、極めてあっさりした口調で言ってのける。 氷河は途端にがっくりと肩を落とした。 白鳥座の聖闘士がアンドロメダ座の聖闘士に並々ならぬ恋情を抱いているということは、城戸邸内ではアンドロメダ座の聖闘士以外の誰もが知っている公然の秘密だった。 そして、氷河の必殺流し目テクは、瞬のために――瞬を ある程度コツがわかってくると、彼は実地訓練のために外に出て、色々な場所で実験を繰り返すことまでした。 自分に流し目を送られた女性陣がほぼ100パーセントの確率で、頬を染め、あるいはそわそわと落ち着かなくなり挙動不審になるのを確かめてから、満を持して、氷河はその技を彼の本命に対して仕掛けてみたのである。 しかし。 彼が研究に研究を重ね、試行錯誤の上に試行錯誤を重ね、ダイヤモンドダストより苦労して身につけたその技は、目的の人には全く力を発揮しなかったのだ。 その事実を知らされた時の氷河の脱力感は、カツオのタタキのついていないカツオタタキ定食を出された時の比ではなかった。 どうでもいい小魚は釣れるのに、狙いのカツオは食いついてこない、その苛立ち、憤り、悔しさ。 釣り人にはカツオでなければ意味がないのだ。 小アジが何尾釣れようと、氷河はそれを家に持ち帰る気にもなれなかった。 それだけならまだしも、氷河の尋常ならざる力に気付いた瞬は、公共マナーや思い遣りの心に欠けている女性陣の改心のために、やたらと、 「氷河、どうにかしてあげて」 と、氷河にその力の行使を求めてくる。 氷河はそんなことのために苦労して その技を身につけたわけではなかったのに。 これほど努力が空しい現象も そうそうあることではない。 「瞬のディナーショーチケットが欲しくて懸賞に応募したのに、欲しくもない高級乗用車が当たったようなものか」 紫龍の比喩を適切と思わなかったらしい星矢が、大袈裟な身振りで首を横に振る。 「違うだろ。世界に一体しかない特製瞬ちゃんフィギュアが欲しくて応募した懸賞で、量産型ザク100分の1スケールプラモが100万体当たっちまったんだよ」 「ああ、その方が的確だな」 紫龍が、星矢の比喩に得心し、おもむろに頷く。 氷河はといえば、星矢の言が腹立たしいまでに その通りなので、逆に腹を立てることもできずにいた。 というより、彼には もはや腹を立てる気力も残っていなかったのだ。 氷河が己れの人生に絶望しかけたところに、折りよく(?)瞬が戻ってくる。 コーヒーカップとガラスポットを乗せたトレイを手にしてラウンジに入ってきた瞬は、室内に奇妙に空疎な空気が漂っていることを敏感に感じ取ったらしく、少し不安そうに眉をひそめた。 「どうかしたの?」 「氷河の技なんて何の役にも立たないって、話してたとこだよ」 「そ……そんなことないよ! すごい力じゃない」 「でも、それって、基本的に一対一じゃないと無効なんだろ? 氷河の力で地球温暖化対策を実現しようと思ったら、氷河は、何十億って数の女に何十億回も流し目をくれてやらなきゃならないわけだろ?」 「この地球上に女性が30億人いて、氷河の技の所要時間が一人につき5秒必要だとする。30億×5で150億秒、2億5千分、417万時間、17万日、475年か。10年以内に温暖化対策を完遂させなければならないとしたら、いったい何人の氷河が必要なんだ」 「10万人くらいいれば、何とかなるんじゃねーの?」 計算していないのが即座にわかる答えを弾き出して、星矢が右の手を投げやりに振る。 「それはそうだけど……」 それを自分の力のように得意がっていただけに、星矢が導き出した検討結果に瞬は不満そうだった。 だが、星矢が提出した結論には、異論を挟む余地がない。 星矢の概算結果に屈した格好で、瞬は、その場は沈黙することになったのである。 |